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文章サンプル② がん闘病コラム(約3000文字)

──がん闘病にまつわるコラム(オリジナル記事)


生涯で男性の2人に1人、女性の3人に1人が罹患すると言われる「がん」。医学の進歩により「不治の病」のイメージは過去のものとなりましたが、患者本人の生活や心を大きく揺さぶる病気であることに変わりはありません。

仕事を失うことへの不安、死への恐怖、抗がん剤による心身へのダメージ、生涯にわたる再発や転移の心配……病気は人の心の深いところにある死生観を浮き彫りにし、親しい人とのあいだに行き違いを生むことさえあります。

公認心理師である私は、まだ心理学を勉強中の学生時代に父親を看取りました。その約十年後、今度は自分ががんを経験しました。

家族・本人・支援者という複数の立場を経験した筆者の視点から、患者と周囲とのあいだで「ギャップを生じやすい3つの事柄」を考えてみます。

親切心から生まれる患者へのアドバイス

大きな病気にかかると、周囲からたくさんの情報や助言や経験談が寄せられます。親しい人が危機を迎えたとき、助けになりたいと思うことは当然のことです。しかし、そのアドバイスが役に立つことはあまりないかもしれません。

私は父親の病気を知ったとき、インターネットで片っ端から医療情報を集め、患者コミュニティに参加し、必要な情報をプリントアウトして収集しました。親戚の中には「がんに効く」とされる高価な健康食品を送ってくれる人もいました。メールでも食事療法や温泉療法の情報が寄せられました。みなが父親を助けたくて必死だったのです。

しかし、後に自分が病気になったときに知ったのは、そうやって寄せられるアドバイスがいかに的外れであるかでした。

病気の症状や経過は千差万別。誰かに効果のあった方法が、ほかの誰かにも効くかはわからない。親切心からだとわかっていても助言を実行できないこともありますし、真偽不明の情報に翻弄されるのは気力・体力の衰えた患者にとっても負担です。

知ってか知らずか私の家族は、闘病中の私に対して「もう少し食べたら?」「身体を動かしたほうがいいよ」「ネットに○○がいいと書いてあった」といったアドバイスを一切しませんでした。長い治療期間中、ひと言も助言や忠告をしなかったのです。

ただただ、私のするに任せていました。おかげで私は、抗がん剤でだるいときは昼も夜もなく横になっていることができましたし、病院にSOSの電話をするか頓服薬を飲むか、すべて自分の意思で決めることができました。

それでいて冷蔵庫を開けると、ゼリーやプリンや栄養補助食品など、私が食べられそうなものが詰まっていました。セルフサービスのビュッフェのように、深夜だろうが早朝だろうが好きなものを好きな時間に食べることができました。

そうやって私が食べたものは、ひっそりと記録が取られていました。抗がん剤投与の何日目に何をどれくらい食べたか、後からすべてわかる記録が出来上がっていたのです。これは2クール目、3クール目と治療が進むとき、副作用の見通しを立てる助けになりました。

逆説的ですが、家族にしてもらって一番嬉しかったこと、それは一切のアドバイスを「しなかったこと」なのです。

タブー視されがちな「死」の話題

どんなに予後のよいタイプでも、がんの告知を受けた後に「死」について考えない患者はおそらくいないでしょう。それは恐怖というよりも、遺していく人・物・仕事などへの切実な心配かもしれません。

気を許した相手を前にすると、つい「もし私が死んだら」という言葉が口をついて出ます。聞き手はショックを受けます。聞き手の口から出るのは「そんな話はしないで」「諦めるな」「きっとよくなるから」といった強い否定です。会話は続かず、気まずい雰囲気でうやむやになります。

理由は2つあると考えられます。ひとつは、そのような発言が「患者の絶望や悲観から出てきている」という周囲の誤解。死を考えるなんてよくない、弱気になってはいけない、病気に負けてしまう、といった感覚です。

けれど患者にとって死後のあれこれは、リアリティをともなった現実です。決して悲観的になったり感傷的になったりしているのではなく、もちろん同情を引きたいのでも慰めてほしいのでもありません。

口にするのは、心の底から伝えておきたいと思っている事柄。人によってはお葬式について決めておきたい、遺していく物品について話し合いたい、ということもあるでしょう。

むしろ死後の話を否定せず、しっかり耳を傾けてあげることは、患者の心の救いになる側面さえあると思います。「わかった」という返事がほしい、それが多くの患者の心情ではないでしょうか。

一方で、聞き手が真剣に耳を傾けるのが難しい、もうひとつの理由があります。聞き手にとってもそのような話は非常につらく、動揺をともなうものだという点です。

愛する人がいなくなった後のことを想像し、具体的に話し合う。聞き手にとっても受け止めきれない重い話題です。どう返事をしていいか、思考停止してしまうこともあるかもしれません。

どちらの気持ちも自然なものです。また、どちらかが無理をするべきものでもありません。

患者にできるのは、自分の気持ちを一方的に相手に押しつけるのではなく、形にして遺すこと。今は文章だけでなく、音声・動画・記録アプリなどさまざまな表現方法があります。しかるべき時機が来たら、必ず相手に届くでしょう。

家族など近しい人には、気持ちに余裕のあるときに患者の言葉に耳を傾けることをおすすめしたいです。無理は禁物ですが、しっかり受け止めた、という事実がいつか両者の救いになるように思います。

それは誰のためのお見舞いか

誰かが重病だとわかったとき、巻き起こるのがお見舞いラッシュ。これは日本の悪い文化だと思いますが、体調不良を知りながらお見舞いをしないのは「失礼なこと」だと考える世代がまだまだ存在します。

患者の性格や、見舞客との関係性にもよりますから一概には言えませんが、ときに見舞客を迎えることが患者や家族の大きな負担となることは考慮すべきでしょう。

父親が入院したときのことです。父親は社交的な性格で、死ぬ前に友人知人に会っておきたいという思いもありましたから、お見舞いはありがたいことでした。

しかしながら、連日のように遠方の親戚から家族にかかってくる「病状はどうだ」という電話には閉口しました。状態はそうそう短期的に変化するものでもなく、何より患者を抱えた家族は目が回るほど忙しいのです。

私は考えました。その日の父親の体調や、食べたもの、医師からの助言などを記したメールを親戚たちに定期的に一斉送信したのです。さながら家庭内メールマガジンです。これは親戚から喜ばれ、電話も減って互いにwin-winだったと思います。

私自身が入院したときには、父親とは違って内向的な性格ですから、お見舞いは一切お断りしたいくらいの心境でした。それでも「どうしても行きたい」という人には、時間を取り決めて対応しました。

約束なしの「今来ました。病室はどこですか?」といった連絡には、どこかプライベートに土足で踏み込まれるような、居たたまれない思いがしました。また、いざ最期のとき、家族と静かに過ごしたいのに「ひと目会いたい」という人々に対応しなければならないのは不幸なことです。

患者に感謝や激励を伝えたいなら、顔を見せるだけでなく心づくしの手紙を送るなどの方法があるはずです。せめて「来てください」と言われてから訪ねたい。そのお見舞いは誰のためのものか、一歩立ち止まって考えたいものだと自戒を込めて思います。

求められるのは相手を思いやる想像力

周囲が「よかれ」と思ってやっていることが、当事者の負担になっているかもしれない、という行き違いエピソードを3パターンご紹介しました。

命に関わる病気は、人間の根底にある価値観をあぶり出します。それまで仲がよかったはずの人と、ぎくしゃくしてしまうことも経験しました。

しかし誰にも悪意はない。ただ立場が違うと見えてこないことがある、それだけなのです。ありふれた体験ですが、相互理解の一助となることを願ってエピソードを挙げてみました。もちろんこの文章はがん患者や家族を代表するものではなく、個人の主観がたぶんに含まれていることを申し添えておきます。

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