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文章サンプル③ インタビュー記事(約5500文字)

──60分間の対面取材から、個人が特定できる情報を除いて書き起こしたインタビュー記事


(リード文)

機会さえあれば、誰でもなり得るとされるギャンブル依存症。社会的に成功していたり、家族思いの人格者として知られていたりしても例外ではない。Aさん(40代男性)もまた、十五年ほど前までギャンブルに問題を抱えていた一人だ。現在は一切のギャンブルをやめたAさんだが、依存症をはじめとするメンタルヘルス問題を告白する著名人には、過剰なほどの侮蔑心や嫌悪感を示す。その一方で「間違いなく自分はギャンブル依存症だった」と明言する。一見すると矛盾するような、両極端を大きく揺れ動く気持ちを聞いた。

▍十代の少年の居場所となったパチンコ店

ギャンブルで人生を失敗した人の話を聞くと、馬鹿じゃないかと思います。まったく同情できないし、共感もできない。ざまあみろ、とさえ思います。親戚にもギャンブルで身を滅ぼした人が何人もいるし、自死した人までいるのですが、軽蔑する気持ちは同じです。今でもパチンコ店の駐車場から出てくる車には絶対に道を譲りません。

けれど自分も、かつては仕事が終わった毎日夕方から、土日だったら朝から、パチンコ店やスロット店に入り浸っていたんです。生活のすべてがパチンコ優先でした。人との約束をすっぽかしたことも一度や二度じゃありません。閉店まで突っ込んで、つまり資金を投入して「もう少しやればこの台は必ず出る」と思えば、翌日は急に仕事を休んで朝から並びました。当時は別に悪いことだとは感じていませんでした。パチンコ以外のことはどうでもよかった、というのが本音です。

最初にパチンコを覚えたのは高校三年生の頃です。親の希望で入学した工業高専に在籍中でした。いろいろ問題の多い家庭だったのですが、子どもへの期待は高くて、成績トップで卒業して公務員になることを熱望されていました。部活もやらず、二年生までは必死で勉強しました。けれど周りは自分を遥かに超える秀才ばかりで、死ぬ気で頑張っても上位に入れないんです。もともと自分で選んだ学校ではないということもあって、「何のためにこんなことをしているんだろう」と気持ちが折れました。

詳しい友達に誘われて、教えてもらいながらグループでパチンコを打つようになりました。頭のいい理系の同級生が多く、釘を見れば出そうな台がわかるんです。自分はそれほど勝てませんでしたけど、勝っている友人もいました。さほど楽しいとは思いませんでしたが、頭を空っぽにして一日中時間をつぶせるのは魅力でした。勝ち負けはどうでもよかったです。みんなで動くのが嫌になり、だんだん一人で行くようになりました。

とにかく家に帰りたくなくて、学校にも行かず開店から閉店まで打っていました。集団行動は嫌なのですが、行くところもないので夜は寮生の暮らす寮に転がり込んだり、ホテルに泊まったりしていました。バイトだけでは金が足りないので親の財布から抜いたり、勝手にキャッシュカードを使ったりもしました。トータルでは数十万円になるでしょうか。銀行で調べてもらったら息子が犯人だとわかったので、警察に届け出るのを思い留まった、なんて親は言っていましたが本当かどうかはわかりません。親はもちろん怒りましたし、親の不倫相手からも口を出されるほどでしたが、パチンコだけの問題ではなかったので行動は収まりませんでした。

この頃の遊び方は、ギャンブルにハマっていたというよりも、とにかく家や学校にいたくないという気持ちでした。時間を忘れられる場所ならどこでもよかった。結果、学校は卒業できませんでしたが、パチンコがなくても同じ結果だったと思います。退学後、地元を離れて東京でパチプロになろうと決心しました。しかし、いざ上京する、という前日に親が専門学校の入学を決めてきたんです。それで入学しました。反発しながらも、結局は親を安心させたい、期待に応えたいと思ってしまうんですね。

入学後は車やバイクに興味が出て、バイトも忙しかったので、パチンコ通いは止まりました。同じ頃、命に関わるような大きな病気で手術をしました。手術を乗り越えた後、ここまで迷惑をかけたのだから、やっぱり公務員になるのが親孝行なのかなと考えるようになって、真面目に試験勉強も始めました。

無事に合格してまもなく就職というとき、家族で居酒屋で食事をしたんです。普段から酒に弱く、コップ半分のビールで酔う奴だと有名だったくらいなのですが、二杯目のチューハイを飲んだときに動悸が激しくなりました。このまま死ぬんじゃないかという、ものすごい恐怖に襲われ、翌日から一歩も外に出られなくなりました。「一日十歩以上、歩いたら」「この種類以外の水を飲んだら」「パチンコに行ったら」また心臓がおかしくなると思い、何もできなくなったんです。すぐに心の病気だとわかりました。母親に同じ症状があって、発作が起きると気を紛らわすために一緒に散歩をする、ということが子どもの頃からあったからです。強迫神経症です。

精神科にかかり、就職できるくらいには回復しましたが、何十年も経った現在でも治療を続けています。就職して数年後、仕事にも慣れてきた頃にパチンコを再開しました。それが本格的な始まりです。

▍仕事よりも家族よりも大事だったパチンコ

当時は二十代半ばで、結婚もしていました。勝ち負けにこだわるようになり、勝った金を入れる専用の通帳を作ったり、勝敗日記をつけたりもしました。平日は仕事後にほぼ毎日、土日も最低どちらか一日は朝から並んで打ちました。パチンコでもパチスロでも、出れば何でもいいんです。仕事帰りに行きやすい近場の店舗で打っていたので、職場でも有名になりました。ドル箱を重ねているのを仕事帰りの同僚に見られて「プロのギャンブラーだ」などと言われましたが、まったく嬉しくなかったです。とにかくパチンコ中は誰とも会いたくなく、話しかけられるのも嫌なのです。

上司に気に入られ、「紹介したい人がいるから、お前のために席をとった」と何週間も前から飲み会の約束をしていても、当日に連絡もせずパチンコに行ったりしました。連絡が取れないので相手は困ったと思います。後からバレて、縁が切れた人もたくさんいます。今になれば「悪いことをした」と思いますし、約束どおり飲みに行って、いろいろな人と人脈を築いていれば人生が変わっただろうと思います。でも、当時は「知ったこっちゃねぇ」と思っていました。職場ではいい顔をしていましたから、それなりに人望もあったと思いますが、陰ではどう言われていたか今となってはわかりません。

家族には嘘をついて出かけました。スーツを着て決まった時間に出て行くので、仕事だと思っていたでしょう。結婚して実家を出ても、やっぱり家には帰りたくなかった。何も考えなくていい真っ白な時間が欲しかったんです。それでもどこか後ろめたい思いはあるし、義両親から怒られたりもしました。厳しく追求してくるような家族ではなかったのですが、さすがに家庭があるのに毎日パチンコに行っているのはやばいな、という自覚はありました。だから二週間に一度くらいは家の買い物を手伝ったり、勝ったときには小遣いをあげたり、景品を持ち帰ったりと、埋め合わせのようなことをしていましたね。

今でも覚えているのが、職場で緊急の仕事が発生して何度も携帯電話に着信があったのですが、パチンコ中だったので無視していました。すると自宅に電話があったようなんです。家族は自分が仕事に行っていると思っていたので、じゃあ、どこにいるんだと。嘘がバレたときには、一瞬まずいなとは思います。ですが、それだけです。

家族旅行に行っても早く帰りたかったですし、むしろ務めを果たしたのだから堂々とパチンコに行けると思っていました。パチンコをやめるよう言ってくる家族もいましたが、それぐらい多めに見ろよと思っていました。誰にでも楽しむ時間は必要だし、そこまでうるさく言われる問題だとは思っていなかったです。ケンカになっても、その場をしのげればよかった。極端な話、別に離婚しても構わなかったです。

あの頃は、いつ死んでもいい、この場で死んでもいいとさえ思っていたんです。長生きしようとはまったく思っていなかった。あまり思い出したくないですし、ギャンブルとは直接関係がないので省略しますが、子ども時代からの家庭環境に原因があったと思います。自分にとっては「生きている=パチンコ」でした。

▍なぜパチンコをやめたのか

三十代半ばの頃、パチンコ業界が二兆円産業と呼ばれるようになり、面白い新機種が次々と登場する熱い時代が来ました。私も『北斗の拳』や『新世紀エヴァンゲリオン』が好きで、夢中になりましたね。

一日で勝った最高金額は40万円、負けたのは20万円くらいでしょうか。もちろん勝てば嬉しいですが、負けても別に悔しくはないです。もともとパチンコで家を建てようとか、金持ちになろうとかいう気はまったくありませんでした。勝てば「またやれる」、それだけです。お金がお金ではなく、メダルを買う紙と思っていました。ただの紙クズです。

ギャンブルが原因の金銭トラブルはありません。それは安定的な収入があったことと、生活費を自由にできる立場だったことが大きいと思います。少額なら簡単に借りられる職場の貸し付けもありました。ただ、ギャンブルとは別に生活上の借金があり、本当は返済に充てるべき金をパチンコに使った、という後悔はあります。犯罪や借金には手を出していないけれど、普通に生活していたら別のことに使えたお金を無駄にした。やっぱりまともではなかったし、クリーンではなかった。筋が通らないことをしていたと思います。

そこにつけこまれて詐欺にも遭いました。複数の借金をまとめて安い金利で貸してくれる、いわゆる「おまとめ」ができるというチラシを見て、申込金を支払ったのです。しかし次は保証金が必要だという。それも振り込んで、次にどうしたらいいか聞くために電話をすると、ヤクザのような人から「そんな簡単な話じゃない」とすごまれました。金融機関の機転もあって被害額の半分が振込停止になったのは幸運でした。警察に駆け込みましたが、当時はまだ今のように特殊詐欺グループを厳しく摘発するような時代ではありませんでした。「それであなたは、警察にどうして欲しいんですか?」と冷たくあしらわれたことは今でも忘れられません。一度詐欺に遭うと名簿が売られるようで、山のようにダイレクトメールが届くようになりました。パチンコ攻略法を教える、というものもありましたね。

攻略法には正しいものもあって、自分も先輩にお金を払って情報を買ったことがあります。一時期は勝てましたが、メーカーも対策をとるのですぐに使えなくなるのです。イタチごっこです。そういえば当時よく、パチンコ店が予告もなく臨時休業になることがありました。大抵の場合、前日の営業時間内にトイレで当てつけ自殺があったりするんですね。そんな日常でした。あまりにギャンブル性が高いと問題になって、「4号機」と呼ばれる機種に規制がかかることになり、自分の好きな台の撤去が決まりました。

それを知って、なんだか急に馬鹿くさくなりました。この頃は新しい家族がいて、家庭の状況もだいぶ変わった時期でした。好きな台がなくなった日、パチンコもパチスロもやめました。それから一度も行っていません。そこまで時間を使って、家族とケンカをしてまで行くものじゃないなと、急に魅力を失ったんです。家でアニメを見たり、のんびりするのが好きになり、パチンコで頭を空にする時間は必要なくなりました。この変化は、自分でも説明するのが難しいです。好きな機種がなくなったから、としか言いようがない。

ずっと自分は、タバコとパチンコだけは一生やめないんだろうなと思っていました。けれど、どちらもやめて十年以上経っています。今にして思えば、一緒にパチンコを打っていた周囲の人たちは、ちゃんと卒業していったんです。でも自分は生活のすべてがパチンコ優先だった。価値観がおかしかったです。

今は逆にパチンコをやる人、パチンコ業界に関わっているすべての人に怒りを感じます。著名人のギャンブル関連のニュースを見ても同じです。でもそれは、自分はギャンブル依存症ではない、という意味ではなくて……たぶん……わかるからこそ、馬鹿だなぁと思ってしまうんでしょうね。よくわかるんです。出る台をとるために朝から並ぶ人も、全国のホールを回る人も。間違いなく自分も同類だったのだろうと思います。

もし若い頃に戻って、もう一度人生をやり直せるなら、ギャンブルは絶対にやりません。当時の自分にとって必要なことではあったんですが……あまりに無駄な時間を過ごしました。お金にしても、あるはずのお金が手元にまったく残っていない。誰よりも馬鹿らしいと思っているから怒りが湧いてくるのかもしれません。支離滅裂ですね。でもこれが、私の体験談です。

(締め文)

ここでは多くは語られていないが、Aさんは出身世帯に複雑な事情を抱えている。強迫神経症のほか、希死念慮や空虚感といった抑うつ傾向もうかがわれる。そんな中、ギャンブルが心の空白を埋めるひとつの手段になっていた事実が見てとれる。Aさん自身は言語化できないが、ギャンブルへの魅力を急速に失った背景に、心理的な回復や生活の安定があったことは想像に難くない。同じくギャンブルに問題を抱える人への辛辣な発言は、過去の自身の姿の投影もあるかもしれない。精神科への通院は継続中であり、解決していない課題も多々あるが、家庭で落ち着いて過ごせるようになった姿には希望を感じさせる。

(5580文字)



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