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書き出しがうまく書けないのは、なぜか。考えてみました。

「書き出しが書ければ、短編はもう書けたも同じ」。それは誰の言葉だっただろうか。谷崎潤一郎だったか。

とにかく書き出しがうまくできていないと、朝、なんとなく履いた靴が、だんだん擦れて痛くなり、夕方には激しい後悔を覚える、そんな感覚になる。書き進めて行くうちにそう感じてしまう。「なんとなく」が、やがて「痛み」を経て、「後悔」に変化し、「ああ、違うな、間違ってるな、この文章のすべてが・・・」と思う。

もっとちゃんと気を入れて、書くべきだったなぁ・・・。初めの一文に満足しないまま時間に追われて書き続け、入稿してしまったことは数多くあった。

コピーライターの僕は、あまり長い文章を書かなかったが、それでも雑誌で長いものを書くこともあった。日常書いていたボディコピーも1000文字を超えるものもあった。

どうして、うまく書き出せないんだろう・・・・とモヤっていた若い頃、ヒントを得ようと藁にもすがる思いで、名作小説の書き出しを勉強したことがあった。

そのうち、まだ記憶に残っているもの、ノートに書き残したもの、最近読んだもののなかから抜粋して紹介したいと思う。


 吾輩は猫である、名前はまだない。
 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。・・・

いきなり猫主語。突然の掴みで、あなたは猫の世界にすいと引きずりこまれ、もう決して逃げられない(夏目漱石「吾輩は猫である」)


 拝啓。
 一つだけ教えてください。困っているのです。

太宰治には、書き出しの名作が多い。いきなり核心へと読者を連れて行く(太宰治「トカトントン」)


 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

27歳、処女短編集の出だしがこうきたわけである(太宰治「晩年<葉>」)


 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

前触れもなく、言葉のナイフをいきなり出すような感覚。たった1行で、平安時代の京都に読者はもう「いる」(芥川龍之介「羅生門」)


どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
 谷川の岸に小さな学校がありました。

幻想のワンダーランドへ、ようこそ!(宮沢賢治「風の又三郎」)


 木曽路はすべて山の中である。

著名な書き出し。こうなるともう完全にキャッチフレーズだ(島崎藤村「夜明け前」)


 彼女とは知りあいの結婚パーティーで顔を合わせ、仲良くなった。三年前のことだ。僕と彼女はひとまわり近く歳が離れていた。彼女は二十歳で、僕は三十一だった。・・・

村上春樹らしさが溢れている書き出し。書き出しにもその人の作風がある。「彼女」SHEから始まる彼の世界(村上春樹「納屋を焼く」)


 ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレイラ・クリストヴァン教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。

この冒頭で、物語が展開して行く、場所や時代や状況だけでなく、「空気感」まで体感することができる。華麗で、計算され尽くした語り始めだ(遠藤周作「沈黙」)


 はるかな迷路のひだを通り抜けて、とうとうおまえがやって来た。「彼」から受け取った地図をたよりに、やっとこの隠れ家にたどりついた。・・・

「おまえ」、「彼」、そして、「自分(語り手)」。この3つの存在が絡み合う奇妙な世界が、この冒頭で強く暗示される(安部公房「他人の顔」)


 国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」

 映画のト書きのようだと感じる。暗闇に一つの光の点があり、それがやがて大きくなり、すべてが純白の世界に瞬間ワープする。その世界は現実でありながら、もう異次の世界の中にある。そして、娘がその世界へ、切なく美しく、精一杯に遠くへと叫ぶ。映像も音も素晴らしすぎて、震えてしまう(川端康成「雪国」)


 堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。

地図の出だし。商都大阪の川と橋の位置。それをそのまま文章にしただけ。しかし、何かドラマが始まる予感がする。心の中にはもう川がゆっくり光と匂いを放ちながら流れ始めている(宮本輝「泥の河」)


 ある朝遅く、どこかの首都で眼がさめると、栄光の頂上にもいず、大きな褐色のカブト虫にもなっていないけれど、帰国の決心がついているのを発見する。

首都はサイゴンだろう。作者はベトナム戦争に従軍記者として加わった。死にも直面し、戦争のすべてを描こうとした。その悪夢のような場から逃れるのにも、決心はいるのだった(開高健「玉、砕ける」)


「しゃっくりが止まら、ないんだ」
 牧原太は靴下のまま玄関に突っ立って情けない顔をしていましたが、考えてみればもとから彼にはそういう少し困ったような顔つきが似合っていたのでした。

主人公の性格や像が、この冒頭でスイッと感じられる。そして、たぶん、みんな、この太さんがちょっと好きになる。同期入社の男女の物語がいつまでも心を温める(絲山秋子「沖で待つ」)


 雨の日、わたしはこの家にやってきた。

さりげなく、何気なく、しかし、雰囲気がある出だしだと感じる。作者の企みも匂う。まだ何も説明していない家なのに、「この」を使う。「この」を知りたくて、次を読みたくなる心理。(青山七恵「ひとり日和」)


 その金曜日の講義には、始めから違和感があった。私と学生たちとの間に流れる、ある空気のざわつき。気にならないほどのことではあったが。

蛇足ながら、僕の小説の出だし。ソニーの「浸音」というオーディオキャンペーンのために書いたもの。軽いミステリーで、小さな謎があり、その謎に向けて進むための一歩目として冒頭を書いた。(黒澤光「バラードの聴こえる丘」)


書き出しとは何か。それは読者を、今、いる場所から、どこかの場所へ連れて行くものだ。その列車のようなものだ。その列車に乗ることで、様々な風景が展開されて行く。様々な人に会い、物語に「違う自己として」浸って行く。人は、忙しく毎日を必死に生きている。だから、この列車においそれとは乗らない。そんな余裕はほぼない。この事実を認識しているからこそ、列車の魅力を作者は書き出しという魔力を使って引き出す。

目的地がどこなのか、どんな風景や人に会わせたいのか、というパーパスが決まっていないと、冒頭は書けない。冒頭がうまく書けないのは、全体がうまく考えられていないことが多い。もちろん、書き出しには、あるセンスが必要だとも感じる。そして努力も。

例えば、4時間かけて1000文字の記事・エッセイを書くときに、1時間は書き出しに費やしていい。そのくらい書き出しの魔力をじっくり気を入れて考えるべきだと思う。もちろん、僕の自己反省を含めて。

参考になったかどうか不安だが、書き届けてみた。では、書くことでいい人生を!



























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