「私、頑張ってる」という実感
ミスコン中毒
ミスコンに出たことがある人が、結構な頻度で口にする言葉。
「ミスコンは中毒性がある」
これには私もうなずける。
ステージ上で全身にライトを浴びて自分をアピールできる機会なんてそうそうない。たくさんの人に見られているという感覚は快感でもある。だからそこに酔ってしまう人も少なくない。
でも、それ以上にミスコンには中毒性のある快感がある。それは「私、頑張ってる」という感覚。
ミスユニバースで言えば「ビューティーキャンプ」など、ミスコンにはステージ本番までにたくさんのトレーニングがある。実際に体を動かすだけでなく、「美とは」といったことを学ぶ講座も受ける。これらも審査対象になることも多いので、ミスコンに出る人の多くは積極的に参加する。
こういう学びの場に何度も出ていると、「私、頑張ってる」という感覚にもなる。それは自然なことであり、間違っているとは私も思わない。
酔うことは決して悪いことではない
でも、ある時ふと我に返って「果たして自分には何が残っているのだろうか」と考えてしまう時がくる。
一生懸命学ぼうとする人ほど、学ぶことに夢中になって、最終的に目指すところを見失ってしまう。そうして見失ったまま突っ走り、後になってから自分は何を成し遂げたいのかと考えてしまうのだ。
所詮ミスコンなど自分探しでしかない。世の中には自分探しのためにいろんなことをやっている人がいる。セミナーに行ったり、自己分析をしたり、世界一周旅行に出かけたり、転職したり……。ミスコンはそれらの中の一つでしかない。
自分探しをする人というのは、「自分には何かができるのではないか」と思っている人でもある。そういう人がその「何か」を必死に探し、お金と時間をつぎ込んで、学ぶことに夢中になる。
繰り返すがそれが間違っているとは思わない。
でも夢中になった結果、かえって自分を見失ってしまう人が多いのだと、29歳になってみて思う。20代、必死に自分探しをし、そこにありったけのお金と時間をかけたものの、結局いまだに見つからない。そう悩んでいる人は私の身の回りには少なくない。
彼女たちは第三者の私から見ても一生懸命だった。お世辞抜きにして頑張っていた。それなのに見つけることができなかったとなると、その落胆ぶりは想像に難くない。
酔いから覚めた時の落胆
実際私も一年くらい前はその落胆に浸っていた。
「私は一体何をしていたんだろう」
たくさんのお金と時間をかけてミスコンに出たけれど、変に中途半端な「ファイナリスト」なんて肩書きだけが残って、何も成し遂げられていない。
地元を歩けば、
「詩織ちゃんミスコン出とっただらぁ」
と声をかけられる。それなのに何も成し遂げられていない。そんな落胆に一年前は浸っていた。
必死に自分探しをし、必死に自分の理想を叶えようとしたけれど、なかなか到達できずに落胆していた私は、振り出しに戻って「自分はどうなりたいのか」を考えた。
そしてやっぱり「文筆業とモデル業を通して自分自身を表現していきたい」と「夫と幸せに暮らしたい」という思いが浮かんできた。
この思いを実現するために、私はミスコンに出たのだ。
時々「その先」を見据える
「私、頑張ってる」という実感に酔うことは悪いことではない。むしろ酔うくらい頑張った方がいいとさえ思っている。しかし酔いすぎて自分が本当に望むものを見失ってしまうのもよくない。
時々我にかえって、自分は何を求めているのかを明確にイメージする必要がある。
「自分の人生は何のためにあるのか」
そうやって考え込んでしまう人は少なくない。特にアラサーともなると考えずにはいられない。
そしてそうやって考えた結果、何かを学ぼうと必死になる。そういう姿勢も間違ってはいない。
でも何かを学び得ていく感覚には中毒性がある。学び得ていく快感に酔いすぎてはいけない。
時々酔いから覚めて、自分の終着点について考えなければ、自分探しはうまくいかないものなのだと思う。
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