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「才能」とは天からふってくるものではない

 意図的につくってきた「才色兼備キャラ」

ミスコンに出て、モデルをやりながら文章を書いている私。

「天は二物を与えずなんて嘘だと、鈴木さんを見てて思う」

「鈴木さんは才色兼備だ」

このように褒めてもらえることは多い。

こうして褒められることに感謝しながらも、それでも私は自分のことをこの褒め言葉にふさわしい人間だと思っている。

かれこれ5年ほど、私は意図的に「才色兼備キャラ」を作ってきたのだ。それにたいして「才色兼備ですね」と褒めてくるのは、私の策略にまんまとはまったと言える。

もともと「ただのモデル」にも「ただの文章が書ける人」にもなるつもりはなかった。ましてや「ただのきれいな人」になるつもりもなかった。ミスコン出場をきっかけに「『文章が書ける美女』になろう」と思っていた。

別に私は最初から才色兼備だったわけではない。自ら意図的につくってきたキャラクターなのだ。

 執筆歴自体は10年以上になる

だいたい私など、ミスコンにもでず、モデルもやっていなければ所詮「近所のおじさん5人が認めるかわいい女の子」でしかなかった。そんな評価など世間に出たところで何の役にも立たない。だから私は美を競う大会であるミスコンに出場したのだ。だから私は外見の個性を活かす仕事であるモデルをしているのだ。

今まで3回ミスコンに出場してきたが、毎回のステージのために10万円前後のお金を使ってきた。ミスコンの審査はステージだけではなく、事前の講習でも行われる。そこに参加すれば当然時間も使う。さらに会社員で有給でもとらない限り、ミスコンに挑戦している間は無給だ。ミスコンに出場したからといってお金がもらえるわけでもない。

モデルだって仕事をする中でどれだけ悩んできたことか。どれだけ苦労してきたことか。一生懸命取り組んでも、思うような評価が得られず、泣いたことは一度や二度ではない。

SNS上では華やかな姿を演じてはいるが、私は「美女」であることにかなりのお金と時間と労力を費やしてきた。

文章執筆自体は高校生の頃から始めている。今29歳なので、執筆歴は10年以上ということになる。

「生まれ持ったものだけでこれだけできて、人生楽勝ですね」

などと言う人もいるが、馬鹿を言ってはいけない。生まれ持ったものだけでここまで来られるわけがない。

「才能がない」のではない

残酷なことを言うようだが、人間はそもそも不平等なものだ。幸せになる権利は誰にでもあって当然だとは思うが、かといって幸せを勝ち取るための武器は誰もが等しく与えられているわけではない。皆持っている武器は違って当然だ。

中島敦の『山月記』に「人間は天から受け取ったものを黙って受け取るしかない」というような言葉がある。

まさにそれで、人間は自分の生育環境や容姿、性分など生きていく上で必要なあらゆるものを、自ら選ぶことなどできないまま生まれてくる。そしてこの世に生まれ落ち、生きていく中で自分は何を持っていないのかを突きつけられる。

自分の持っていないものを嘆く気持ちは分かるし、私だって嘆くことは多い。

それでも人間は天から与えられたものを使って生きていくしかない。

さらに面倒なことに、自分が天から何を与えられているのかに気づくためにもまた時間と労力が必要だ。

「自分は天から何を与えられているのか」

この問いかけを何百回と自分にし、試行錯誤した末に見つけるのが「才能」だ。

ある意味才能とは天から降ってくる神々しいものではなく、地べたを這いつくばって泥水をすすりながらかすかな指の感触を頼りに探し、指先に触れた石を即座に掴んで必死に磨き、他人に笑われようとも後生大事にするものなのだと私は思う。

「私にはこれの才能がある」

その思い込みが本当の才能になる。





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