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映画短評第十回『ロープ』/語る責任と行動する責任

 娯楽作品の描く暴力や倫理を欠いた描写と、現実の人々の倫理感の欠如は、度々結びつけられる。因果関係が明確でない分、作った側に責任を求める人もいれば、消費者側の良識の問題とする人もいて、完全な解決はまだ遠い。ただ、何かを伝えるために描かれる間違いがあり、その歪んだ解釈から犯罪が行われることは、実際にある。

 自分たちの優秀さを試すため、友人を殺したフィリップとブランドン。殺人のスリルに気を良くしたフィリップは、遺体がある部屋に人を集めパーティを開くと言い出す。だが、一方のブランドンは不安と後悔から、完全犯罪に綻びを作っていく……。

 今作の2人も、ジェームズ・スチュアート演じるルパートの表現(劇中の冗談)を直接的に解釈したことで、殺人を犯している。だがルパートの口にする論理は、理解できない世の中を理解するための一つの考え方であって、行動に移すべき何かとは違う。今作では、その一見過激な論理と人の付き合い方に関する示唆が多く含まれている。
 ルパートの殺人に関する冗談を、笑って流す婦人がいる一方で、ある紳士は疑問や憤りを覚える。かたやナチスを例に上げて、狂信的に同調する若者もいる。多種多様な接し方と考え方があり、互いに尊重されている(らしい)光景は、人間社会の思想的縮図にも見える。だが観客はそれを単純に良しと出来ない。最初に殺人の現場を見ていて、その犯人が目の前にいるからである。さらに物語の推進力は、主にブランドンの心情に基づく「バレるかバレないか」を巡る緊張だ。つまり観客は犯人側のスリルを共有し、それを映画として楽しんでいることになる。
 そこに来て、ルパートが青年たちの凶行の片鱗を見て動揺していく。最初は興味本位だった詮索が、遂に禍々しい真実を掘り当ててしまう。スリルに喜んでいた観客は、彼の発見を通じて、その喜びが歪んでいることを再認識させられる。
 こうして心情を揺さぶり、事件を罰するのであろう街の声と音の中で終幕を迎える。長いワンショットで映される、そそのかしてしまった人間と、行動に移してしまった人間の姿。それは、描く物と影響される物、両方を罰する視線にも感じられる。
 演劇的に見える舞台立ての中で、スリルを高め持続させる演出の数々が、結末の両成敗をより際立てる。サスペンス映画としての品の良さを楽しみながら、映画自体と現実との関係、今も残る優劣思想の醜さを、改めて認識させてくれる79分間。アルフレッド・ヒッチコック、恐るべし。

(文・谷山 亮太)

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