私が統合失調症から良くなった理由
統合失調症の発症には「自己肯定感」が関わっているという研究があります。統合失調症から回復するには、活動を通して自分への信頼や、できる自信を高めていくことが大切だとする研究です。この研究にはとても納得が行きます。
もしかしたら、統合失調症になる方は自己肯定感や自尊心が低い面があるのではないかと思います。そのために生きる意味を感じられず、自暴自棄になってしまうのかもしれません。
私が統合失調症から良くなり始めたきっかけ、大きな理由は「主体的に生きる」ことを始めたからでした。そのことによって、自己肯定感や自尊心も育てることができつつあるように感じています。
今回はそのいきさつをお話したいと思います。
発症するまでの私
私は小さい頃は、運動の時間に整列させられると、前から1、2番目の小さな子供でした。大人しくて気が弱い反面、意地になると言うことを聞かない、頑固なところがありました。幼い頃から家族関係に複雑なところがありましたが、それを言葉にして表現する器用さはなく、ただ悶々と自分の中に抱えたまま成長しました。たまたま成績が良かったので、高校受験で進学校へ行きました。疑問や葛藤を抱えながらも、わずかながら研究者になりたいという希望を持ち、大学へと進学しました。今思い出すと、自分がどうしたいかという考えがなく、空気ばかりを読んでいて、周りに流されやすい性格でした。
大学へと進学した理由は、4人の子供の中で、成績がたまたま良かったのが私だけだったこと、少しばかり科学が好きだったこと、高校が進学校だったために、他の選択肢が思い浮かばなかったことなどなど・・・ 様々な理由が思い浮かびますが、周囲からの無言の圧力もあったと思います。父は勉強ができたのに、祖父の意向で中卒で働きに出たと、後になって聞きました。小さな頃から欲しいものを買ってもらえることが少なく、家が経済的に豊かではないことは気づいていました。そのことについて両親と話し合うことができていたなら、大学へ進学せず地元で就職することも考えられたかもしれません。けれど私は、両親と相談らしきものをしたことはなく「家が貧乏な上に4人子供がいて、私しか勉強ができないのだから、大学へ行って良いところに就職して、良いお給料を稼がなければいけない」と、そればかりを思っていました。
家庭環境から愛情を感じることが少ない成長過程を経た私は、心のどこかに「人の役に立たなければ、愛されない」と感じていました。大学に入って一人暮らしをすることになり、心がどこか空虚で満たされないのに、さらに一人の孤独にさらされる環境になりました。心の偏りのためなのか、人間関係に恵まれませんでした。寂しさから自分のためにならない誘いであっても、周囲の人々からの誘いを断ることができませんでした。自己価値という概念がなかったため、周囲からは軽く扱われていたのに、そのことに気づくことすらできず、いいように使われていました。友人のように見えて冷たい同級生、私の意思を無視する恋人、勝手にシフトを追加するバイト先の上司・・・ 様々なストレスを感じながら、どうにもできませんでした。
いろいろあった末に大学での単位をいくつも落とすことになり、呆然とする中、しばらくして病が発症しました。
発症してから。医師ばかり頼る母、私を信頼しない母
細かい出来事はここでは省きます。ほとんど意識障害のようになり、もうろうとした状態で緊急入院することになりました。後で知ったことですが、この時に医師は母に「社会復帰は無理」と告げていたそうです。医師からのアドバイスで母は、大学への休学届けを私に断りなく提出してしまいました。そのことを知った私はなんとか後期の講義に戻りたいと、大学の教授へ電話して訴えましたが、残念ながら間に合いませんでした。私は大学を卒業して就職する道しか頭になかったので、大学を退めることに抵抗しましたが、今度は父が病に倒れ、ほどなくして亡くなりました。経済的に行き詰まり、それでも諦められずにしばらく休学していましたが、叶わず数年の後に退学しました。
この頃はおそらく統合失調症に関する情報が少なかったのでしょう。医師の言うことはいつも曖昧でした。「どのくらいでよくなりますか」「さあ、わかりませんねぇ」の押し問答の繰り返しで、簡単にいえば「一生薬を飲み続けなさい」、言外には「あなたは一生病気です」というものでした。精神科の閉鎖病棟は、まともな会話ができる相手はなかなかいませんでした。看護士の方達はいつも忙しそうにしています。会話らしきものは、週一回の診察の時だけ。かえって頭がおかしくなりそうでした。母に「退院したい」と伝えても、「でもまだ変なところがある」「〇〇ちゃん(私の名前)じゃないみたい」と取り合いませんでした(この言葉を思い出すと、今でも傷つきます)。医師に「退院したい」と訴え続け、しばらくして目立った症状が治まったところで、退院しました。
実家に戻った私に、母は家事をするように言いつけました。私はそのことが嫌でした。イライラして頭がおかしくなりそうでした。何かをぶち壊したい衝動に駆られましたが、物を壊すのは悲しい気持ちになるから嫌で、時々自分の頭を叩いて憂さ晴らししていました。
女であることへの怒り
私は子供の頃から鬱積を抱えていました。年子の兄は祖父に何でも買い与えられて、ゲームばかりして遊んでいるのに、私は「女の子だから」という理由で家事手伝いを強いられました。私は納得いかないので、しぶとく抵抗しました。母は「お皿洗いが楽しいわ」とわざとらしく言って、私に手伝わせようとしていましたが、それでも私は頑として手伝おうとしませんでした。母は悲しそうにしていました。学校のある日は朝食の準備を手伝わなければ、準備が間に合わず学校に遅刻してしまうので、仕方なく食事の準備を手伝いました。祖父や父、母がなんやかやと家事をさせようとしても私はいうことを聞かず、兄がシャッターを閉める係、私がカーテンを閉める係、ということでやっと納得しました。シャッターを閉めるのは身長がなければ大変でしたし、下ろすのには力が要りました。カーテンはそれぞれの部屋にあるので手間がかかります。兄と私との負担の公平性に、やっと納得したので、そのお手伝いは受け入れました。
小学校の頃読んでいた学習誌がきっかけで、地球規模の環境問題に興味を持ちました。どちらかというと、「なんとかしなければならない」という責任、そうでないと恐ろしいことになってしまうのでは、という恐怖などが入り混じった負の感情でした。子供ながらに将来研究者になって、環境問題を解決しなくては、そのためには勉強しなくてはと思っていました。中学生の頃も、兄はクーラーの効いた涼しい部屋で遊び、私はエアコンのない暑い部屋で勉強していました。兄は男だから、長男だからという理由だけで優遇されて、甘やかされている。なぜ自分は女に生まれたからという理由で、家事をやらされなければならないんだろう? それよりも勉強して、偉くならなければならないのに。理不尽に感じました。兄は私には遊ばせず自分ばかりゲームをして、父はお酒ばかり飲んで、祖父は母をこき使って。男達は好き勝手なことばかりしていました。
自分の限界を認める
実家にいても、落ち着きませんでした。私のことを病気扱いして、まともに取り合わない母と、顔を突き合わせてばかりいるのは苦痛でした。時折洗濯物を干してみると、母の勝手の良いように造られたベランダで、身を屈めて洗濯物を洗濯バサミに留めるのは苦痛でした。布団を干すとか、取り込むとかも、その頃使っていた綿の布団は重く、苦痛でした。このまま母に合わせて、苦痛な毎日を送りながら一生を終えていくのかと思うと、苦しくて何も気力が湧きませんでした。家を出たい一心でアルバイトを始めました。大学の頃の知人を頼り、家を出ました。この頃はまだ休学中だったので、なんとかお金を稼いで大学に戻りたい、卒業したいとばかり思っていました。けれど体力がなく、知恵も少なく、稼いだバイト代は生活費だけで消えていきました。夜のクラブでも働きました。それでもお金は溜まらず、人間関係が荒れていくだけでした。そこまでしてやっと納得がいき、私には学費を捻出することは無理だと、認めることにしました。夜の仕事を辞めると同時に、大学に退学届を出しました。
社会人として生きるために
それまで「大学を出て研究職に就く」ことしか頭になかったので、その目標を失ってしまいどのように生きていったらいいのか、全くわかりませんでした。母は相談相手になりませんでした。何か話しても自分の話をされるばかりで、私のことについては考えてもらえませんでした。もしかしたら、母も知識が少なかったのかもしれません。自分なりに「できそう」または「やってみたい」と思える仕事に就いて、なんとか生活していました。けれど3年は続きませんでした。
仕事の成果が特に認められて役職がつくことがない限りは、アルバイトのような仕事は内容が変わりません。扱う商品やサービスに変化はありますが、日々繰り返す行いにはほとんど変化はありません。社員だったり、規模の違いだったりによっては、部署を移動して新しいことに取り組んだり、出世して管理職になるなどの変化があるのでしょう。変化が多いのは大変ですが、変化がなさすぎるのも苦痛なものです。何年もアルバイトで、将来の展望が開けないのは苦痛でした。
前向きに転職したい想いで自分なりにキャリアパスを描きましたが、壁ばかりが立ちはだかりました。特に不満を感じたのが、「経験者しか採用しない」ことと「新しいことに挑戦する機会を与えると見せかけて、経験のあることしかさせない」ことです。今回の記事の文脈とは違うのでここでは書きませんが、このことには多々思うことがあります。
意思を言葉にできた日
30歳頃、キャリアアップしたくて、日中仕事をしながら夜間学校に通いました。その頃片思いをしました。今思うと、この時もいいように使われていただけだったのですが、その時は相手のことを信じていて、真剣な気持ちでした。勘違いの恋ではありましたが、人と付き合うこと、結婚して生活を共にすることに対して、私なりに覚悟ができたのだと思います。私は「自分の家族が欲しい」と思うようになっていました。東日本の震災が起こり、もともと不安の強かった私は、統合失調症を再発したような状態になってしまいました。人生2度目の入院です。2度目だったので、そこまで戸惑いはありませんでした。淡々と過ごして、前回より早く回復しました。医師に「自分の人生を生きたい」と、自分なりの言葉で説明して、薬を減らしていきたい、自然なままの自分を取り戻したいことを訴えました。自分の人生を主体的に生きはじめることができたのは、この頃からだったと思います。
薬を減らして、自分らしい日常をつくる
今でも、昔言われた母の「◯◯ちゃんじゃないみたい」という言葉を思い出すと、悲しくなります。母の思っていた「私」は、一体どんな私だったのだろうと思います。もしかしたら、従順で、聞き分けがよくて、母の言うことをちゃんと聞く、家事をきちんとする。そんな私を望んでいたのかもしれません。今も思います。その頃の私の何が一体「私らしさ」だったのだろうと。もしも「私らしさ」があるとしたなら、いつでも「今の私」にしかそれはあり得ないように思います。今も時々「あなたらしさ」を押し付けてくる人に遭遇することがあります。その時私は違和感を覚えます。「あなたにこうあってほしい」という押し付けがましさがあるからです。そんな言葉は無視していいと思っています。
私のために、自分の人生を生きるために大切なこと。それは「日常をつくる」ことだと思いました。私にとっての普段、私にとっての普通。私が快適に感じる、定常的な生活を創造することです。もしかしたらケースワーカーのような人や、精神保健福祉士のような人がそうったことを手伝ってくれるのかもしれません。私には今のところ、そのような支援の手は見つかっていません。ですから自分で創ることにしました。
医師に調子を相談しながら、少しずつ薬を減らしていきました。やりたいことを見つける努力をするようになりました。なかなか思い切れなかったのですが、障害年金を申請しました。もっと自分に優しくなろうと思いました。今もまだ道の途中のような思いでいますが、毎年その年の一年前より、少しは良くなったと感じています。
まとめ
周りに流されたり、空気を読んだりしていては、人は自分の人生を生きられないのだと思います。大きな流れ、社会の動きや周囲の環境の変化は避けられませんが、自分にある力を信じて、できる動きは自分で創っていくことが必要だと思います。社会の世論は人の情けを訴えることもありますが、金の亡者に煙に巻かれることもあります。いざという時、助けになってくれる人はほとんどありません。「利害なく付き合える」という意味を履き違えてはいけないと思います。「利害を超えて付き合いたい関係」なのか、「利害までは共有せずに済ませる関係」なのか。社会の理想は前者ですが、世間の現実は後者です。
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