他責思考が命を救う
ああまたこの駅か。
先日、昔よく使っていた駅で人身事故があったというニュースを見た。
そして今日もまた同じ駅で同様の事故があり、
別件で、私がよく使う駅でも飛び込みで亡くなった人がいた。
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仕事を辞めてからと言うもの昼夜逆転が著しい。
今日も朝5時ぐらいまで寝られずに起きていた。
サラリーマンの夫が起きてくる時間である。
今日は月曜日。曜日の感覚ももはや無い。
務め人をしていた頃は月曜日が憂鬱で仕方なかった。
休み明けの落差が激しすぎて休日の存在が恨めしくもあった。
朝が来ることへの計り知れないあの絶望感。できればもう一生味わいたく無い。
ふと、こんな月曜日はまた電車に投身してしまう人がいるのかなと布団の中で考えた。
電車に身を投げる人は、もう今日死んでやると決めて家を出るのか、それともなんとしてでも会社なり学校なりに行かなくてはと思ってスーツや制服を着て、ああやっぱり無理だと思ってしまうのか。
後者だとすれば、家から駅までの道はまだ生へ向かうエネルギーがあったのだと思うと、生と死との差はほんの寸分の違いしかないのかなと思ってしまう。
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私がこんなにも死を意識してしまうのは、
数日前が知人の命日だったからである。
どうしてもこの時期は死を避けて通れない気持ちになるのだ。
あの日のあの人も電車で目的地まで向かおうとしていて
それができず力尽きてしまった。
その人の生前の姿や、最後に遺された文章なんかを見ていて思うのだが、
自分で死を選んでしまう人は優しすぎる。
本当はどうにかできるはずのことも自分の力不足だからできなかった。そんな無力な自分には価値がないと思ってしまうのだろう。
「人のせいにするな」とはよく言ったものだが、もうこれからの世の中は積極的に人のせいにできる図々しさがないとやっていけないなと思う。
不器用で真っ直ぐな人には全く優しくない社会だから。
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自分も含めた不器用で真っ直ぐな人が少しでも輝ける社会にしたい。
すごく抽象的だけれど、今の自分にはそんな夢がある。
1つ、今すぐお金にはつながらないが、長期的な目線でやってみたいと思うことがある。
それは今何件か抱えているプロジェクトと並行してはできない。
費やす時間が大きすぎるのだ。
「安定を捨てる」という事は自分の中でもう大した事じゃなくなったらしい。
「辞めぐせがついた」と言われてしまえばそれまでかもしれないけれど。
今の仕事を全部手放して一番やりたいことに全振りすることにした。