サタデー・ナイト・フィーバー

今日は土曜日で夜に更新、ということで「サタデー・ナイト・フィーバー」(以下「SNF」)をお題にしたい。
ジョン=トラボルタ氏の華やかなダンスシーンが有名だし、いかにもフロアが熱狂していそうなタイトルをしているから、クラブのロマンスを描いた作品ですみたいな顔をしているが、実際はそんな楽しい物語ではない。
行きたいところへ行ける人とそうでない人の明確な隔たりと、実力者でありながらその評価が正当に評価されたものではないことへの「興醒め」にも似た苛立ちがスクリーンに映し出されている。

優秀な兄と比べられ、週末のディスコだけが憩いの時間にして最も己が輝けると信じてやまない時間を過ごす主人公・トニーが、行きつけのディスコで出会った自分と比肩するダンススキルを持った女性・ステファニーと出会ったことでその価値観が大きく変わっていく。
しかし、ステファニーを追えば追う程、自分とは全く違う世界に生きていることに気付き、葛藤しながらもダンスに打ち込んでいく。

意外と現実の僕らにも同じ様な「隔たり」を目にすることはままある。
例えば――決して自分が世界の基準だとも言わないし、分かりやすい例えが他に思い浮かばなかっただけで、ここで基準未満と表現する世界を差別する意図は無いことを明記しておく――、僕がガソリンスタンドでアルバイトをしていた時、高校生の頃に妊娠して退学したシングルマザーの女の子が働いていた。
彼女曰く、まぁそういったことは彼女の学校ではそこまで珍しくないらしく、男女関係も入れ替わりも激しければ関係の発展も激しいようだった。
誤解を恐れずに言えば彼女の学校は底辺校だとかヤンキー校だと言われる部類だったワケだが、僕の周辺には可もなく不可もない高校か進学校の人ばかりだったので、程度の差こそあれど少なくとも「妊娠で退学」は聞いたことがないし、ドラマや小説といったフィクションでしか基本は起きないレアケースだと思い込んでいた。
逆に彼女から見れば真面目に授業を受けてベンキョーするためにまた進学する、という価値観が不思議に映っていたらしかった。
さらに例を進めると、そんな見えている世界の違う僕らから見ても、東京の一等地で生まれ幼少時からお受験を経験し、子供の頃から満員の電車に一人で乗って、立派な職について――という世界の人の見ている世界は分からないし、もっと雲上の上級国民、フィクションにはなるが「逆境無頼カイジ」の兵頭みたいなお金や権力で多少のことは思い通りに操作できてしまう法外な存在は、ホントに存在するのかすら知る由もない世界だ。
そういった見えない「隔たり」の向こうの人と交流したとき、人は隣の芝が青く見えたり、もしくは芝ではなく砂利じゃね?と思ったりして、時に妬み、時に疎ましく近寄りがたいモノとして認識する。

そしてクライマックス。
自分を見つめ直して決意を新たにしたトニーは、ついにペアを組んだステファニーと共にダンスコンテストへと挑み、満足のいく最高のパフォーマンスが出来たと自信満々で演技を終える。
しかし、直後によりハイレベルな演技を見せつけられ、世界は更に広いことを知る。
にも関わらず、正当な評価ではない優勝を授与され、自分の演技にその「隔たり」が関与したことを察し、燻りを抱えたまま劇場をあとにするのだった。
気付きと目醒めを経た若者にとって、その優勝が全くの価値を持たず、むしろ屈辱であることは誰しも感覚的に理解できるのではなかろうか。
それが理解できる人は「試合に勝って勝負に負ける」を理解しているワケで、つまりは結果のみが評価される世界で踏むべきプロセスを踏んだ覚えがある人だろう。
そしてそれを知らない人がいたら、やっぱり僕らは「隔たり」を感じてしまうだろうし、人の世に平等など存在しないことを理解する。

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