同志少女よ、敵を撃て

2022年に読んだ作品で最も衝撃を受けた作品であり、それは数々の受賞と当時の書店にズラリと平積みされたポップから世間にも衝撃を与えたと思う。
……という書き出しだと如何に普段から読み物を摂取しているかのようであるが、僕は特別本の虫といえことはなく、この「同志少女よ、敵を撃て」(以下「同志少女」)のように賞を受賞したような作品でなければ読むことはあまりない。
昔から本は沢山読んでいたが、今は本以外のインプットが手軽になったことで幅広く履修していて、そしてその方が今の僕のライフスタイルに合っているからである。
カフェで静かに読書をする休日のモーニングルーティン、憧れるよな……。

「同志少女」は戦争史の中でも有名なスターリングラード戦の前後を描いている。
「同志少女」のヒットには時代背景も関係していると思っていて、当時はロシアとウクライナの戦争に世界中に緊張が走っていた。
様々な論調が日本国内でも連日飛び交っていたが、実際のところロシアとウクライナの関係性は我々部外者が思っているよりずっと根深く、複雑である。
僕自身はその辺は完全な素人なので特に深入りしてコメントする気は無いし、知ったかぶりもしないのだが、「同志少女」作中でもロシアとウクライナの確執は随所に描写されている。

戦争と女性兵士といえば必ず名前が挙がるのが「戦争は女の顔をしていない」だが、この作品もまた背景設定を同じく描かれており、当然に同作が参考に並んでいる。
恥ずかしながら「戦争は女の顔をしていない」は気になりつつも何だかんだらんまらんまで履修していない。
女性兵士といえばソ連というイメージはまぁ何となくあったのだが、「同志少女」を読んで思うのは「女の顔はしていないが、そも銃を持った瞬間に男も女も無いのだ」ということ。
少女は容赦なく敵を撃ち殺しては吠えるし、逆に性別などお構い無しに容赦なく殺される。
この手の話題からは切り離せない捕虜女性へのレイプだが、それは銃を手放しているからで、ある意味真の男女平等は戦場にしかないのかもしれない、とふと思った。

豚すら撃つのを躊躇った少女が人を撃ち殺す度に歓喜に高揚していく様を恐ろしい・悲しいとは誰もが感じることだと思う。
しかし、自分でも気付かないうちにそうなっていたという環境の方が恐ろしい。
「同志少女」は読み手すらいつの間にか少女達がそうなっていることに後から気づき、驚きと恐怖を感じ、そして同時に今こうして戦場ではない島国に居ることに安堵し、その安堵にすらどこか後ろめたさを感じる。
何時だったか何処だったかの書店で百合作品セールと銘打ってこの作品もピックアップされていたが、釣りもイイトコである。
戦争に全てを奪われ、振り回され、信じていた愛にも裏切られ、壮絶なトラウマと生き残ってしまった者の痛みや苦しみを抱え、それを分かち合える人がその人しかいなかったという物語なのだから。

こんな作品がデビュー作となった逢坂先生が気の毒でならない。
これ以上の衝撃を受ける傑作を書くのは容易いものではないからだ。

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