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闘うことこそが解放

梁さんとは70年代半ばに知り合い、大阪の鶴橋に住んでいたころ、ご近所さんと言える近さに住んでいた。
 そのころの梁さんは精神を患っていたお姉さんの介護生活もあって、精神的に追いつめられていた。彼女から、そのことを聞いた後も私は忙しさにかまけて距離を置いたまま、その後も梁さんとの関係は変わらないできたと思う。
 梁さんが吹田のウーマンズ・スクールに関わって以後は、眉間にしわを寄せていた顔が浮かぶばかり。
 そんなある日、いきなり梁さんが私に在日朝鮮人と日本人は共に闘えるか。そんなようなことを聞いた。対等とは言えない関係なので私は難しいかな。と言い終わらないうちに語気強く「できる」と言った。
 私のことをいえば、自分が受けていた日本の学校教育への怒りから70年代に朝鮮語を学ぶことにしたが、出会った在日朝鮮人の友人たちから学ぶことの方がはるかに多かった。そんななかの友人が本名で表札をだすのは「こわい」と言っていた。いつ日本社会は関東大震災後の状況に戻るかもしれないという不安。
 
 あれから40年以上経って、現在は臆面もなく差別や憎悪を言いつのる時代になった。差別や憎悪は無知から生まれるが、絶えず自己を検証して克服していく。そんな気風は遠くなるばかり。梁さんの「できる」は今も耳に残っている。
 80年代、30歳半ばで私が一人暮らしから異性のパートナーと一緒になって感じたことは「こんなにも楽になるのか」という驚きにも似た思いだった。
 女は社会の性的規範に縛られていることを今さらながら知ることになる。
30歳を過ぎた女がひとりで暮らしていると、あれこれ詮索され、有形無形の同調圧力にさらされる。 
 結婚の形態については、法律婚かどうかを問われることはなく、一緒になると結婚したんだなあというのが世間の認識のようだ。
 そんな社会にだらっと溶け込んだような状態になっていた私に、生活も仕事も共にしている同性どうしの梁さんと川口さんの存在は意識せずにはいられなかった。
 私はなぜ異性のパートナーと暮らしているのかと問われている。そんな思いがめぐっていた。
多様性ということでは求職の時に提出する履歴書にあった家族欄がなくなったり、事実婚に遺族年金が支給されるようになる等、わずかにも進んできたとはいえ、私が異性のパートナーと一緒に暮らしていたということは、強制異性愛社会を強力に支え続けていたことになる。
日々、生きることが闘いだった梁さんにとって、その延長線上に指紋押捺拒否の闘いがあった。闘うことが解放や!ということを身をもって示してくれていた梁さんの人生だったと思う。(三木綾子)

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