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「家族」

世の中が荒んだ状態になると、家族っていいなと思うようになる。社会の危機になると、人は心の拠り所が欲しくなるのだろう。私も家族という心の拠り所がほしいと思う。

今は心が不安定だし、時間はあるものだから、考え事がぐるぐると巡ってしまう。少しでも供養するつもりで書く。

私は家族というものへの思いや価値観をかなりこじらせているし、家族が「正常な」状態にはない。だから職場の雑談にありがちな家族ネタが苦手だし嫌いだ。GWや年末年始に実家に帰省しないと言えば親不孝扱いされる。当たり障りのないように、でも架空の設定を作るのも面倒なので嘘にならないように、適当にその場を凌ぐ答え方をする。面倒な作業である。尋ねる方は当たり障りのない話題のつもりでこちらに話を振っているのだから、たちが悪い。

家族ネタを振ってくる人は、きっと家族という存在の根本で悩んだことがないのだろうと、羨ましくなる。私からすれば、家族ネタは地雷原だらけの危険なテーマだ。親しくもなく、事情も知らない人に対して話題にしようとは思えない。

結婚式も家族を突きつけられる場だ。結婚披露宴は両親への親愛・感謝があるのとないのとでは、ずいぶん趣が違うだろう。これまで招待していただいた結婚披露宴は、さまざまな家族愛の形を私に教えてくれた、素敵なものだった。私にそれができるのか、一方で自問自答せずにはいられなかった。

昨年両親が正式に離婚した。子はかすがいとはよく言ったもので、私が実家を出てから徐々に家族が離散していくのがわかった。だから特に驚きはなかったが、母からそれを聞かされた食事の場では、ほとんど何も食べられなかった。目の前で、自分の帰る場所がなくなったのだ。普段は感情を遠ざけていても、いざ眼前に突きつけられると感じるところはある。

母と父、どちらが決定的に悪いということはないだろう。母にも父にもそれぞれ思うところはあるだろうし、子の立場からすれば、二人は価値観が違いすぎてそもそも結婚したのがなにかの間違いだったのではないかと思うこともある。それでも、私にとっては唯一無二の家族であることは揺るがない。ずっと家族の問題で悩んできたからこそ、かえって家族というものへの思いが強かったのかもしれない。

母は、自分の子からは家庭を奪っておきながら、自身は最後には実家に逃げ込んだ。母には感謝しているけれど、これはたぶん一生許せないと思う。

私に家庭はないけれど、両親の面倒を見なければならない日がいつかかならず来る。どういう形を取るにせよ、全く放っておくことはできないだろう。そのとき私はどういう気持ちで、二人に何を返すのだろうか。

翻って自分の将来の家族について考えてしまう。

家族の形に正解なんてないと頭ではわかっていても、家族とはかくあるべしという観念が私の中に刻まれている。自分に子どもができたとして、自分のような思いはさせたくない、と思うばかりだ。以前母に「私達は『幸せな家庭』のロールモデルを身近で見たことがない」と言われたことがある。だから自分も幸せな家庭を築くことができなかった、そういう言い訳なのかもしれない。そうだとすれば私は家族なんて作らないほうがいいということになる。実際私には幸せな家庭を築く自信はない。誰も幸せにできないのだから結婚する権利はないと思うこともあった。

ただ、孤独は何より辛い。

仕事柄いまだにオフィスワークが中心のため、平日は人と触れ合う機会がある。友だちに恵まれ、オンラインで交流もたくさんしている。それでも、土日誰とも会わず、下手すれば1日で「Lサイズのレジ袋ください」しか言葉を発しない今の生活はきつい。

家族観はぐちゃぐちゃでも、家族がほしいと思う。家族が家族であるためには、家族を家族であろうとするための努力が必要だ。父はそれが決定的に足りなかった。母はそれを途中で放棄した。誰にかは全くわからないけれど、私はその努力をしようと思う。家族とはかけがえのないものだから。