姑獲鳥の夏の終わり(10/4の日記)
※この文章では京極夏彦の『姑獲鳥の夏』のオチに触れますので、これから読む予定がある方におかれましては先に進まないほうが宜しいかなと思います。
お久しぶりです。
夏の終わりどころかもうそこそこに涼しくなってきた今日この頃だが、またちまちまと日記を書いていこうかなと思っています。さて。
タイトルにもあるが、姑獲鳥の夏という小説を読んだことはおありだろうか。
私が敬愛する京極夏彦先生のデビュー作であり、妖怪解体小説(というジャンルが果たして氏の作品以外にあるのかよくわからないが)の起こりであり、本格ミステリ的にはメチャクチャなズルそのものみたいな作品だ。
もういきなりオチのネタバレになるが、ある人物が「そこにあるはずのものを、脳が拒否するあまり見えていない状態だった」というのがまず謎の中心にある小説だ。
書くな、そんなものを。デビュー作で。
とはいえ、京極堂シリーズ(というか京極夏彦の小説全般の)全体にある「「見えるものは見えるのである」という前提崩壊を人間の脳が引き起こす」みたいな概念はすでにこの段階で完成しており、デビュー作故にそれが最も際立って示されているのが姑獲鳥の夏だと思っている。
面白いよ。読んでね。
作品の根幹にある、「見えるものだから在るのではないし、見えないから無いのではないよ。外世界を知覚して内世界を再構築して感じ取っている自分の脳を疑ってね」という概念に、当時中学生だった私はメチャクチャ感化されてしまい、しかもそのまま大学生になり、大学でも(文学とか哲学分野の)近い考え方の授業を受け続けていたせいで若干おかしくなってしまっていた。
結構大マジで自分以外の主格の存在を認めない方向の考え方をしていたので、まあ一途だし偏屈だなと思う。
今はさすがに自分の脳だけが世界を構築しているとは思っていないけども……。
なぜいきなりそんな話をしているのかというと、ここ2か月半くらい耳を患っておりまして。
どうにもずっと耳が詰まっている感じがするし、それが瞬間瞬間によって右耳だったり左耳だったりする。
間に1か月くらいおいて病院に2件行ってみたが、どうも聴覚には問題はなく、むしろメチャクチャ鋭敏な耳をしているらしい。
移動中四六時中イヤホンつけて、ライブハウス行きまくりスタジオ入りまくりの人間が鋭敏な直核を持っているとは俄かには信じがたいけど。
結局何が原因なのかというと、ぶっちゃけよくわからない。
というか99パーセントくらいの確立で気のせいらしい。なんじゃそりゃ。
考えてみたら当たり前なのだが、モノが詰まっているわけでもなく鼓膜や外耳に傷がついているわけでもなく、聴力が下がっているわけでもない耳が、右が詰まったり左が詰まったりするわけないということだった。
内耳の病気の可能性を探るとしても、基本はどちらかが悪いもんで、右が悪かったり左が悪かったりすることはあんまり無いと。
ということは気のせいというか多分心因性ということになる、という話で、「あんま気にしないようにしてみたら?」と2件の病院で医者に言われて今に至る。
どうもある感覚(耳が詰まる感覚)を気にしすぎているあまり、それを延々と自分でリフレインしている状態にあるらしい。
気にしないようにしてねと言われているのにこんなにダラダラと記事にするやつがあるか、とも思うが、個人的にはちょっとだけ嬉しい部分があったので書いてしまった。
つまり、精神的な要素が自分の人体に影響を及ぼしている⇒現在進行形で世界の認知が歪んでいる⇒俺今姑獲鳥の夏の関口君じゃん!!
ということだ。アホだ。
まあでも実際医者に気にしないでみろと言われてからだんだん楽になってきている気がするし、1件目の病院に行ったあとの1か月はもう耳が治らないのではという気持ちで過ごしていたからその分治りが遅れた、みたいなこともあったのかもしれない。
別にそれが全てではないけど、病は気からというのもあるんだな~と思った体験だった。
自分の根幹の思想が自らの肉体で実践できてよかった。よくないけど。
そして、この身体感覚を擬人化すると妖怪現象になるということにも今気づいた。
俺は今妖怪を産んでいる……!
(了)
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