「世界観とは何か?」<連載09 なぜ人は「世界観」を求めるのか?③>
前々回、前回と、世界観がもつ機能的側面に注目し、人は世界観という機能を利用して、合理的に物事を判断しているという話をしました。
『ハリー・ポッター』という作品が世界観を持つのと同様に、我々も一人の完成した人間として世界観を持っています。それは時に、他人に対して評価されうるものです。
私たちは、「素晴らしい世界観に包まれたい」という欲求も持っていますが、そういった世界観との出会いにより、常に自分の持つ世界観も更新されているわけです。
前者は「worldbuilding」、後者は「worldview」に根差し、「worldbuilding」は後から派生してきた概念であることは、以前に書きました。ただこの二つの関係性は、まだまだモヤモヤとしていると思いますので、次回以降解像度を上げていきたいと思っています。
今ここで問題にしたいのは、あらためて世界観が更新されているという事実です。前回話したように、歳を取ることでも変わり、年収や所有物の違いによっても変わるでしょう。世界観という時には、表面的な価値観ではなく、もう少し根本的なものを指しますが、いずれにせよ、同じ人間でも、時と共に、経験と共に、変わっていくのは間違いがありません。
そのように、自分自身が世界観というフィルターを持ち、場合によっては、何かの体験によって、自分の状態は全く変わらないのに、劇的に世界観だけ変わることもありえるということです。
それは時に文学や歴史に触れて変わったり、あるいは生死を伴う体験によって変わったり、もう少しライトで穏やかだけれども、確実に自分の価値観を変えるような体験で変わるかもしれません。
おそらく、もっとも多くの人が経験する世界観更新の機会は海外旅行ではないかと思います。それもそのはずで、世界観の違う人たちしかいないので、そこで作られた見るもの、触るもの全てが、自分の世界観とのギャップを感じさせ、否が応でも更新を迫られます。
「郷に入りては郷に従え」などという言葉もありますが、それは異文化への礼儀の話だけではなくて、実利的にも世界観を調整することが現実的だという話と言えます。
こうやって考えていくと、世界観というのは、自分の中にビチっと揺るぎなく存在するものではなく、もう少しテンポラリーなものであると言えるかもしれません。
実際この辺りが、「worldview」と「worldbuilding」を繋げるヒントにもなるかもしれないと考えていて、また次回以降お話ししていければと思っています。