見出し画像

三秋縋と現実、自分のこと

三秋縋という作家が好きです。新刊が実は何年も出ていないから新しいやつが全然読めていない。新刊、まだかな。


私の中で三秋縋は小説家というよりもインターネットの人(2chとか)という印象がある。これは読書経験の浅さから来ているものなのかもしれないけれど、ストーリーはしっかりしてるけれど思い浮かぶのは登場人物の言葉だったり街とかの風景だったりする。何気ないツイートだったり、画像検索でヒットした写真だったり、シャッフル再生で流れてきた短い音楽だったり、そういったものに似ているよな、と思う。

話の流れよりも人の仕草、表情、声のトーン、そんな文章で表しただけの実在しないものが上位の記憶に出てくる。

三秋縋を読み始めて、色んな人と話して、色んなことを空想していたら最近現実の記憶に虚像の記憶が混ざり始めている。電車で窓の外眺めてて前の夏にこんなとこ行ったなーどこだっけって思い返したら君の話って小説読んでる最中に浮かべてた情景だった。頭のどこかで冷静に可笑しいなと思う。これはヤバいってやつなんだろう。なのだけどそれもいいかな、って思っている。自分の人生を壊すヒロインに会った気分だ。この状態自体が。


私の思うヒロイン性ってのは自分の作った架空や理想に男の子を巻き込んでそのまま全部自分のせいにして逃げることなのだけど、
要は突拍子もないことを言い出して、何とか自分に着いてこさせてそのまま自分と同じ運命を辿るようにする、または自分だけ逃げる…消えるとか、死ぬ。
勝手に始める純新無垢さと勝手に終わらせる狡さを持っていればきっと誰にでもなれるんろうな。
でも怖いから、私にはまだ出来ないや。将来とか自分の世間体とか気にしちゃうから情けないです。


本当は三秋縋の話に出てくる男の子の話、というか私がこれまでに話したり、図書館で見かけたり、帰り道で自転車を漕いでたりする男の子全員の話をしたいんだけど、もしかしたら運命の人かもしれないから。

前述したヒロインは全部自分のせいにして逃げてる、って書いたけれど、これの逆が普通の恋愛のような気がしてて、相手のことを好きになって、好きって伝えることは自分の思いの行き場を相手にすることだから思いの終着点はきっと好きな人だし、恋を成立させるなら自分も相手の思いに責任をとらないといけない。
でもそれは怖いから、
責任を負うことをしないで人を好きになりたいような人がきっと推しとか、妥協した好きな人とかに逃げちゃうんだと思う。何言ってるのか自分でも分からない。人と両想いになったことがありません。知ったような口きいてごめんね。

私は三秋縋の本の中のヒロインになりたくてでもそれは私だけでいいのに私だとダメな気がする。だから私以外本当は誰にもならないで欲しい、私以外がもしなってたらその人を刺すかもしれないし、私が海に落ちちゃうかもしれない。
いつも愛して欲しいって思っているけど、最近はたまに抱きしめてくれる人と、いつかの思い出が欲しいなって思っているし、自分の愛というか感情の行き場を探しているだけなのだろう。

恋は自分の報われなかった過去を救ってくれるように思う。
救うと言うよりも暖かいクッションのような、スライムのようなもので傷つけようとしてくる過去の辛い記憶を有耶無耶にしてくれるのだ。
けどその恋は水銀みたいでとてつもなく大きな質量を持っている。恋自体は自分を刺したり斬り付けたりはしてこないけれど、その質量はきみを動けなくしてしまう。その塊は重くて君を縛り付けるけれど確かに暖かいんだ。
私たちが感傷に浸って、感傷を大切にするのはそもそも何処にも行きたくない、何も見たくないからで、その暖かな塊を生み出すことで傷を保護する利益が大きいんじゃないだろうか。身軽である必要はなく、居心地がいい場所にとじこもることが私たちの生き方なのだろうから。

文章が、架空が延命してくれている脳をこうやって無駄にしている。

私はいつかヒロインになるよ、必ず。

サポート宜しければお願いします、おそらく本を購入します