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『フィロソフィー』って曲なんだけど...

『フィロソフィー』って曲なんだけど...

皆にはどんなフィロソフィー(哲学)があるだろうか

哲学と言えばアリストテレス、フロイト、カント、パスカルを想像するだろうか。そうではない。私は人の哲学ではなくあなたの哲学を問うている。問うことが哲学ならそれでも良い。これだけの歴史を持ちこれだけの偉人が研究する中誰も解明できていないというだけで哲学の魅力は十二分に伝わるだろう。自分だけの哲学を持っていない者こそこの曲を聴くべきだ。

冒頭メロディが疾走する。
『遮断機の点滅が 警報みたいだ人生の』これを聞いてからというもの意識的に遮断機を見てしまう。この時点で相当人生に食われそうになっている。そんな絶望的な状況からこの歌は始まる。『くさって白けて投げ出した いつかの努力も情熱も 必要な時には 簡単に戻ってくれはしないもんだ』
必要な時、と言う言葉にハッとする。たまに、あの時から努力を続けてればどうなったかなと思う。1000人がやりたいと思って、100人が行動する。その中の1人が継続する。努力とはそれほど希少価値があると思う。秋田氏は努力を結果で証明した一人だからこそ「努力、情熱に戻ってきてもらう」という発想が面白い。
『商店街の街灯も消える頃の帰り道 影が消えたら何故かホッとして 今日も真夜中に行方不明』彼には今哲学などない。眼前の現象に何かと理由をつけては安寧を必死に探す。そんな姿をどうしても自分に重ねてしまうのはどうしてだろう。
『死ぬ気で頑張れ 死なないために』なんて後ろ向きな応援歌なのだ。しかしこれほど真っ直ぐでシンプルにパンチラインを作り出す秋田氏に脱帽する。非常に消極的な生き方だが、これに共感するヘッズ(私含む)はこの生き方こそ効率的なのではと感じる。そしてマイナスな運びからサビが始まる。
『君自身が勝ち取った その幸福や喜びを 誰かにとやかく言われる 筋合いなんてまるでなくて』
当たり前だが、忘れてしまいがちな思考だ。そもそも哲学とは当たり前を疑うことがベースなので、これくらいわかりやすいのか丁度いい。秋田氏は義務教育として普及すべきだ。ようやく伝道師感がでてきたぜ…。なんて言いつつもこの歌詞には「唯一無二の幸福や喜びを哲学として保存できているか?」という問いに聞こえる。
文字数に限りがあるため2番に行こう。

『都市の距離感解せなくて電車は隅の方に立ってた』何度も言ってるが、amazarashiは2番が至高だ。もう東京に住んで6年くらいになるが、常に圧迫感のある都市の距離感に私も息が詰まる。しかし、それが故に電車の隅に立つと言うのはユニークな因果関係だ。想像は難くない。普段隅に立っている人の中には、もしかしたら距離感を考えている人もいるのかもしれない。『心覗かれたくないから 主義主張も鳴りを潜めた』主語の入れ替えで言葉が脳にて反芻する。まるで主義主張に意思があるかのような口ぶりだ。コミュニティに属している人はよっぽど強心臓ではない限り、この類の経験があるのではなかろうか。主義主張というアイデンティティをさらけ出すことは、裸になることと同じくらい羞恥に値する。『中身ないのを恥じて 施した浅学 理論武装』これを聞いてどきりとした。私には人より秀でている部分がないので、中途半端に英会話や歴史の勉強などしている。これこそ浅学だ。何かに取り組むのは決して悪いことではないと思う。しかしこれが浅学理論武装だというのは自分でも薄々感じるし、秋田氏のにはすっかり見抜かれている。「なにかに取り組んでいる」という自分が好きなのであって自分を騙すことが目的になってしまっている。『自分を守ってその軟弱な盾が 戦うのに十分な強さに変わる日まで 謙虚も慎ましさも むやみに過剰なら卑屈だ』まずい。どこも飛ばす歌詞がない。今回は文量がだいぶ重たくなりそう。ここで先程の「浅学理論武装が充分な強さになる」と明言してくれる。少なくとも肯定してくれていると解釈したい。「軟弱な盾が強さに変わる日まで。」一文一文がスマートだ。簡潔で豪傑だ。謙虚も慎ましさもあって損はないが、有り余ると卑屈になる。私にはその加減がわからない。謙虚であれば平凡な生活が送れると思いきや、いい塩梅を取ることが出来ず、この世界は生きにくい。
『上手くいかない人生の ためにしつらえた陽光は』「陽光」という言葉にあらゆる現象が凝縮されている。恋愛、受験、承認欲求、すべて言ってしまえば「しつらえた陽光」だ。『消えてしまいたい己が影の 輪郭を明瞭に』陽光が返って影の輪郭を作るという当たり前のように見えて、気づきのない因果に思わず目を、いや、耳を見張る。ここで気付く。サビは当たり前を疑う歌詞がふんだんに使われている。何度も咀嚼しなければ気付かなかったがまさしくフィロソフィーという言葉を使わずに哲学とは何かという琴線に触れている。

『塞ぎがちなこの人生 承認してよ弁証法』ここが、最も好きな一文だ。ようやくフィロソフィーに直結するワードが出てきたと思う。まさに承認欲求で動かされる人類にとって弁証法は相性が良い。「承認してよ」とわがままにすがる感じもたまらない。『悲しみを知っている 痛みはもっと知っている それらにしか導けない 解が君と言う存在で』やーーー、承認欲求のど真ん中を撃ち抜く表現。悲しみ、苦しみを対立ではなく肯定し統合していく。その因果の先に「君」という回を導き出した。「弁証法」というワードを出した3秒後には弁証してしまう圧巻のパフォーマンス。
『そもそも僕らが生きていく 動機なんて存在しなくて 立ち上がるのに充分な 明日への期待、それ以外は』ここまでフィロソフィーを歌い上げてきた結果、生きていく動機など存在しないと言う。これほど残酷な現実はない。しかしここで秋田氏が動機など存在しないと言ってくれる事で、無理にこしらえた動機がいかに不必要かを教えてくれる。それは虚しさであると同時に明日への期待だけで生きるの値するぞ、という希望的観測を明示する。一方で哲学なんていらないと言われているようだw。でもそんなお粗末な人生の中で哲学を探すのはどうだろう。秋田氏はこの曲でフィロソフィーは自分の中にあり、他人に求めるものではないと教えてくれている。そして歌詞の中でもあったように「君」自身が買いという言葉も、この曲をヘビロテすればしっくりくるもんだ。遠回りしてこの曲に原点にたどり着く回文のような秋田氏の歌詞は今回も健在だった。

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