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『未来になれなかったあの夜に』って曲なんだけど...

『未来になれなかったあの夜に』って曲なんだけど....


タイトルを見た瞬間、「あ、これは神曲だ」と認識しなければ君はまだまだamazarashiファンとは言えない(自戒)。我々が越してきた夜は、多分未来になれない夜がほとんどだ。今は遠くに行ってしまった恋人と過ごした夜、道半ば破れた夢を語った夜 そんな夜に手向けを添えるようなこの曲は私にとって今は亡き夜の供養となる。
『色々あったなの 色々の一つ一つを つまびらかにしたくて ペンを取ったわけですが』秋田氏はいつも抽象的な事象を何とか言葉にしようとする。雑多になってしまう形而上学的な思考を整理するために歌詞を書く。私がこのようなブログを書くのと同じだと思う。たまたま彼は歌詞で私は文書だった。思考は膨大かつ曖昧なので言葉にするのはなかなかに難しい。そのため人は思考に立ち止まることなく、それらは気付いたら消え去ってしまっている。そのほうが生きるうえではよっぽど楽なんだ。『名誉ある潔い撤退より 泥にまみれ無様な前身を』とどのつまり、その場を取り繕うために拵えた綺麗さではなく 未来になる夜を作るために這いつくばってでも前進しろと。体裁や形に囚われ、本質を無下にする我々への進言である。例えば私は誰もやりたがらない仕事を、何かに託け率先してやることはない。やらない理由なんて作ればいくらでも出てくるが、泥にまみれる覚悟のあるものは、結果無様でも構わないから請け負って人生の歩みを進められる。社会人になってから人生の前進を感じる機会が少なくなった。そんな自分を戒めるような歌詞に苦笑いしている。

『まさかお前生き別れたはずの 青臭い夢か?恐れ知らずの 酒のつまみの思い出話と 成り下がるには眩しすぎたよ』
過去に抱いた夢。秋田氏に取っては音楽で飯を食うと言う夢。まだ社会や大人について詳しく知らないガキが恐れ知らずに見ていた青臭い夢とサビで再会している。そしてどうしてもないがしろにできず見てしまう夢を拒絶ではなく肯定する一文だ。「酒のつまみになるには輝きすぎている」という表現は、まだ夢が生きていて、まだ未来になれる可能性を秘めていると言うことの暗示かもしれない。

『前向きに生きる ことほど素晴らしいことはない でも「前向きに生きて」じゃ 頷けない誰かさんのため』Put your hands up。誰かさんに私も入れて欲しい。ここでいう「前向きに生きてじゃ頷けない」というのに当てはまる人は多いのでは。前向きに生きることが本望であるのは重々承知している。大方の人はそこに何の疑問を抱かない。前向きに生きてちゃ頷けない人はマジョリティに当てはまらない人だ。しかしamazarashiはマイノリティのために歌を歌う。マジョリティに合わせたほうがよっぽど売れるだろうが、彼らは救うべきターゲットをぶらすことはなかった。だからこそ私はついていこうと決めたのだ。『恨み辛みや妬み嫉みの グラフキューブで心根を塗った それでもなお塗りつぶせなかった 余白の部分が己と知った』一般的にグラフキューブとは塗道具だが、グラフキューブの良さは塗りつぶしや細かい線の創出などの多様性にある。ここでグラフキューブという言葉を使用したのは、その汎用性に掛けているからではないだろうか。「恨みつらみや妬み嫉み」のグラフキューブなんてとんでもない代物だ。どこの角を使用しても良い絵なんて描けたものじゃない。それで心根を塗るのだから一層最悪だ。そして、それでもなお塗りつぶせない部分があるという。そこを「己」と表現する奥ゆかしさよ。おそらく上記4色で塗った心根では、自分の良い部分は塗りつぶせなかったのだろう。それは必ず自分には良い部分があり、どれだけ自分を呵責し非難して自尊心を粉々にしても、自分の良い部分は残り、逆説的に自己認知をするといったところか。むしろ塗りつぶすからこそ自分の好きな部分に触れることが出来るのかもしれない。
『見えるものにだけ見える光だ 影こそ唯一光の理解者』まず「光だ」と「理解者」の語感が良いな。そして影こそ唯一光の理解者とは一体全体どういうことだ。光と影は表裏一体であり、肩を並べるがゆえに、一番消したい影という存在が光のことを良く知ってたりするもんか。だとすると一概に影を毛嫌いするのはお門違いなんだろうな。『旅立ちといえば聞こえはいいが 全部投げ出して逃げ出したんだ』いいっすねここ。正当化して誤魔化すものの、結局逃げ出しただけと認めるところ。人として大切なことであり、それを言葉にするのは恥ずかしい。私が言葉にできない恥部をはっきりと言語化してくれる秋田氏にBig up。『孤独な夜の断崖に立って 飛び降りる理由はあと一つだけ そんな夜たちにクソくらえって ただ誰かに叫んでほしかった』この「あと一つだけ」とは何を指すのだろう。もしかしたら我々が飛び降りようとする理由も一つくらいしかないのかもしれない。たった一つだから誰か止めてと、心では思っているのかもしれない。そしてそんな夜も今では「未来になれなかったあの夜」だと言うことができる。それは未来を生きているからであり、死んでしまったら未来になれなかった夜を思い出すことすらない。
『取り立てるほど不幸ではないが 涙は路銀ほどに支払った』路銀=旅費というワードチョイスがまずいいね。キャパシティは十人十色であり、私の不幸もあなたにとっては些末なものかもしれない。そんなことをわかっていながらも実際はつらいし悲しい。涙だって流れるもんだ。そんなニュアンスがここから感じ取れる。『僕の過去の轍を見る人よ ここで会うのは偶然じゃないさ』不思議な文だ。轍とは注意喚起や先例の意を含有する。ここで会うのは偶然じゃないとはどういうことだ。シンプルに解釈すれば必然ということだ。つまり過去と現在は線で結ばれており、必然的に「過去の轍を見る人」と出会う。つまりどういうこと?どうにも浅学がたたり、はじめて秋田氏に置いて行かれたかもしれない..www『夢も理想も愛する人も信じることも諦めたけど ただ一つだけ言えること僕は 僕に問うこと諦めなかった』ここは正直一番くらった。思考欲求の極みだ。劣等感や閉塞感を感じる人は自分との対話が増えがちだ。私の場合捻りっぱなしの蛇口のように思考が止まらない。「幸せとは何か」という哲学の王道から「明日の商談どーしよっかな」という生活ベースまであらゆることを思考する。私はこんなに考える自分が嫌いだった。しかし裏を返せば自分への問いを何十年も続けてきたことは数少ない私が継続できたことだった。物心ついた頃から家族の事、自分のことを血眼で考えてきた。考える割には思ったように結果が出ず苦しんだ。しかし結果ではなく「問う」それ自体に価値があったらどうだろう。秋田氏はそんな『問うこと』の正当性を人生で初めて肯定してくれたのだ。

『醜い君が罵られたなら 醜いままで恨みを晴らして 足りない君が馬鹿にされたなら 足りないままで幸福になって』なんて素敵な御言葉だ...秋田氏は決して人に変わることを要求しない。自分を肯定したうえで、背伸びせずに立ち向かえという。『孤独な奴らが夜の淵で もがき苦しみ明日を諦めて そんな夜達に「ざまあみろ」って今こそ僕が歌ってやるんだ』ありがとう。どんなにやり切れない夜も、秋田氏が「ざまあみろ」と言ってくれるだけで少し救われた夜になる。「今こそ」って言葉がキーだ。あの夜を克服した秋田氏がこうして我々を脅かす夜から守ってくれる。

結局我々は『未来になれなかったあの夜』に感謝するのだろうか。はたまた懺悔をするのだろうか。もしかしたら攻撃するかもしれない。私がこのブログを書く夜も「未来になれなかったあの夜」になるのだろうか。それでも手を休めるわけにはいかない。幾千の「未来になれなかったあの夜」の上に私は立っているのだから。

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