旅は財産

もう40年近く前のことになる。私は大学を休学して1年数か月の間、海外を放浪したことがある。

お金があったわけではない。

ご飯に醤油だけをかけて「卵ごはん」、ご飯にソースだけをかけて「カレーライス」と言って笑って食べているような大学時代である。

家の事情で親からの仕送りもなかったが、質素倹約を続けついに奨学金と膨大なバイトで50万を貯めた。

いよいよ私の夢が実行に移される時が来たのだった。
「帰りの飛行機代10万を残して40万円で1年以上放浪するんだ!」と考えるだけでワクワクしたものだ。

休学の届と理由を言うために大学の担任のところへ行くと、
先生はこう言った。
「なんのためにいくの?遊び?ちゃんと研究課題はもっているの?」
私はこの手の大人に辟易としていたので、さらりとかわした。
「世界をみてくるだけですよ」って。

それとは対照的に、高校時代の恩師は青春時代の暮らし方をこう言っていた。

『人生は海のように広い。しかし今はその浜辺にて遊べ。」

私は、デイパックにバーソロミューのアジア地図と布団代わりのシュラフカバーを詰めて出かけた。
まだ、携帯電話なんてない時代であった。ポケットには植村直己著の「青春を山に賭けて」という単行本を入れていた。

貨物船のような船に乗って横浜から上海に入った。1万円くらいだった気がする。最初の頃は、港の倉庫のひさしの下や公園のベンチ、駅舎が私の常宿だった。当時の中国には私のような路上生活者?が多くいたから、私は彼らと酒を酌み交わしてそれなりに楽しんでいた。物価が安いのも幸いだった。

私は、チベットを目指して西を目指した。ところが、なかなかチベットにはたどり着かなかった。その途中の村々で中国人やら学生やらが家や学校の招待所に招待をしてくれたからだ。当時の中国にはほとんど日本人がいなかったから、珍しがったのだろう。

中国の様々な地方で中国の家庭料理をごちそうになったが、本当に中国の家庭料理は地方により様々だが本当に美味しい。

ところで、私は1か所に数週間から数か月の間滞在することが多かった。泊めてくれたお礼に農作業をしたりした。気が付くと夜でついまた泊まってしまうの繰り返し。笑

これは私の予定していた旅の方法だった。ただの移動をするだけでは意味がないと思っていたからだ。「一か所に長く、移動は短く」が私の旅の方法であった。そうすることで、人とのつながりが生まれ、本当の生活を見ることができると思ったからだ。

また、当時の中国は外国人の立ち入り区域は限られていた。ついそんな地区に滞在してしまい、公安(警察)に捕まったことがあった。
警察の官舎に連れていかれ、どうなることかと思ったことがあった。

しかし、公安は取り調べが終わると日本の生活文化を聞きたいといいだし、宴会をしながら拘置された。笑。
現代中国語は日本からの逆輸入の中国語だから筆談がとても役に立った。もちろん最低限の中国語は大学の講義で受けていたため話すことはできたが。

私がチベットに入るときには、中国政府とチベット自治区は仲が悪く戒厳令が敷かれていた。そのためチベットには入ることができないと中国人から聞いていた。

中国のチベットからヒマラヤを越えて、ネパール・インドを目指す私には大きな問題だった。別ルートのカラコルム山脈を越えてパキスタンへ抜けてそのままインドを目指すルートもあったが、チベットをどうしても見てみたかったので、チベットへ密入をすることになった。

頭を坊主して、茶色のマントを着て、チベット行きのバスに乗り込んだ。
標高4500m以上の高地にチベットはある。植生がはげ山にかわり、ヤク(茶色い羊みたいな動物)の放牧農家にお世話になったこともあった。電気もなく水は雨水を貯めただけの農家の家である。夜はわずかなろうそくで明かりを灯していた。日が明けたら、甘いお茶を飲んで放牧生活。夜はさっさと寝る。これが意外と楽しいものだった。農家の主人の言葉が印象的だった。

「日本って夜も電気だ明るいんだってね。夜は星を見ながら寝るものなのに何をしているの?」

チベットに何とかたどり着くと、そこは不思議な地だった。英語の看板があちらこちらにあった。戒厳令なんかはチベットまで届いていないのか、白人のバックパッカーがたくさんいた。ポタラ宮や寺院を見て歩き、チベット人と話をするのも楽しかった。寺院は子供たちの学校にもなっていた。
観光地化したチベットは早々に切り上げて、バスと徒歩でネパールに抜けた。
標高が低くなってくると山道になり、吸血ヒルに悩まされた。草をかき分けて進むときに、手や首や腕に食いつかれるのだ。そんな時はライターであぶってヒルを取り外した。そのまま引っ張るとヒルの口が残り化膿するからだ。

ネパールにつくと雰囲気はガラッと変わった。ネパールはホッとする空間だ。何しろ人々は笑顔が絶えず、時間がゆっくりと流れている国だった。

旅疲れした私の体は、あっという間に癒された。
カトマンズにつくと、バックパッカーがたくさんいた。日本人は「地球の歩き方」という本をみて行動していたので、特定の宿に集結?していた。ほとんどの日本人バックパッカーはハシシ(大麻)をやってラリっていた。
今はどうなのか知らないけれど、ハシシは黒い粘土のような塊だった。
それを直径数ミリの小さな玉状にする。たばこをばらして、たばこの葉の中にポロポロと混ぜて、再びタバコの状態にする。それを直接吸うときついらしいので、両手を空間ができるように合わせて、指にたばこを挟む。そして両手の隙間に口をつけて皆で回し吸いをしていた。

私はハシシで意識が朦朧としている間に、わずかな旅の資金が盗まれるのを恐れてハシシは吸わなかった。酒で十分だった。カトマンズで腕時計を登山道具に替えて、私はランタン渓谷を一人でトレッキングすることにした。
神々の山を見上げながらの最高のトレッキングだった。何しろ未踏峰が目の前にある。しかし宗教上の理由で登らないだけらしかった。

私は自分の体が原始に近づいていると自負し川の水を飲み、小麦粉を焼いてジャムを食べていた。

過信は禁物である。テントを張っていつものように川の水を煮沸して飲んでいたら、下痢と腹痛と熱にうなされてしまった。
体が動かない。雨季に入ったのかよく雨が降っていたのを覚えている。
熱を下げようと、テントから顔をだし、雨に打たれ続けていた。水もない。小麦粉を焼いて食事をする元気もない。近くには誰もいない。3日目には、神々の山の下で自分は死ぬんだと思った。四日目の朝は晴れていた。テントから顔を出したまま、ボーとしていた。すると山岳民族の少女が目の前にあらわれた。どうしてかわからないが、その少女はペットボトルに入った水とナン(パンのようなもの)を置いて行ってくれた。おかげでようやく動く元気が出た私は少女に心からお礼をもっと言いたかったが、少女はどこかに行ってしまったため、カトマンズにゆっくりと歩き出した。

途中から車に乗せてもらいカトマンズで体調が復帰するまで、安宿で静養した。

元気が出てくると、すぐさまインドを目指した。
インドは手ごわい国だった。ネパールと正反対で緊張感と厳しい空気と視線が私を襲う。

当時バックパッカーの間では、インドの旅は2極に分かれるといわれていた。一つはインドがたまらなく魅力的でいつまでもインドを離れられなくなる派。もう一つはホテルを出たとたん耐えられなくなりすぐに帰国する派である。
ニューデリーは貧困と富裕層の格差、身分制度の厳しさが感じられるだけだが、カルカッタあたりだと、道には浮浪者・ハンセン病患者・死体・乞食がが道路にあふれていたからだ。こんな話を聞いた。

カルカッタで国際会議が開かれることになったので、政府はカルカッタの浮浪者・ハンセン病患者・乞食にこう言った。「食料をあげよう。仕事も紹介してやるからこのトラックに乗りなさい。」その人たちはトラックに乗った。その人たちはデカン高原にみな捨てられた。

とりあえず、私はインドのガンジス川に行った。聖なる川は天国へ通じるといわれる川だ。淡い黒緑の水が流れていた。人々は沐浴をしていた。上流に目をやると火が焚かれている。人々はそこで葬式をしているのだ。そう、遺体を火葬しているわけだ。問題はそのあとだ。遺体を焼いて炭にするわけではない。黒焦げだがまだ中は?という状態で死体はガンジス川に流される。さすがに沐浴している場にその物体は流れてはこなかったが、広いガンジス河の中程を黒い物体がぷかぷかと流れていく。

聞いた話だが、黒焦げの遺体をガンジス川でプカプカ浮いているのは衛生上も環境上もよくない。で、政府は秘策を打ち出したとか。宗教上の理由で火葬を中止できないから、その遺体をできる限り早くなくすためにワニをガンジス川に放そう!

我々の常識とはかけ離れた発想だが、そもそも常識にと呼ばれているものになんの意味があろうか?

ガンジス川のほとりで人々がある老人をあがめて膝まづいていた。
その老人は何故あがめられていたのか?幼少のころから左手を下げたことがないそうだ。だからその老人は左手を挙げていた。爪が伸びて黒く褐色になった腕を皆があがめているのだ。

ほかにもインドの様々な経験はあるが、ここではキリがないので割愛する。

いずれにせよ、こうなってくると、私の頭はぐるぐる回りだした。価値観がガラガラと崩壊していくのが分かった。

自分の心の中でこう考えだした。
「ちょっと待て、インドはなかなか刺激的だぞ。」

この後、ブッダの生涯を勉強してある私は、ガヤ(ブッダガヤ)を目指すことになる。ブッダが悟りを開いた地である。

塔と菩提樹の木が有名だが、ブッダガヤの周りは、菜の花畑だった。黄色いきれいな花畑の向こうに日が沈む風景が大好きだった。
菜の花畑の前の細い道を、リクシャー(三輪自動車)が行き交う。夕日はオレンジ色で、地元の農家が働く姿のシルエットが美しかった。
菩提樹の木が、カラフルなハンカチ大の旗で祭られ、僧侶たちがたくさんいた。僧侶たちが宿泊しているすぐ近くの宿で私はブッダガヤを楽しんだ。
王族の裕福な家で育ったブッダがすべてを捨て、ここで何を考え、ここで悟りを開き、悠久の地インドで何を語って歩いたのか?想像を張り巡らしながらブッダガヤの空気と空と菜の花を楽しんでいた。

私の心の中には、新たな誘惑が湧き出いていた。
「このまま、パキスタンへ抜けてそのままヨーロッパまで貧乏旅行を続けよう。大学は辞めていけるところまで行こう」

ブッダガヤの菩提樹の周りには小さな石碑みたいなのが並んでいて、僧侶たちはそこに座って瞑想をしていた。次の日も次の日も次の日も。

私は、「この僧侶はいつも瞑想しているな」と思っていた程度だった。
数日して、その僧侶が実は座禅を組みながら死んでいることを知った。
餓死だったと思う。
僧侶の周りには、地元の人々が花と供物をささげて伏していた。貧しい地元の農民たちは自分たちの貴重な食べ物さえ捧げていた。

この時だった。日本に帰ろうと思ったのは。
私を温かく迎え入れてくれたのは、アジアの大衆だった。
小さな日常の中の幸せを紡ぎながら生きている人だった。
その人達は、海外に旅に出る余裕など一切ない。でも私はこうやって旅に出て働きもせず生きている。
私を助けてくれたアジアの人たちに申し訳ない気持ちがあふれ出てきた。
なぜ、裕福な国に生まれた私と、日常を生ききるだけで精一杯の貧しい人々が世界には存在するのか?

私は大学に戻り、狂ったように経済学を学んだ。
理由は簡単だ。私を温かく迎え入れたアジアの人たちに恥ずかしくないような生き方をしたかったからだ。
私は、なぜ途上国の人々が飢えるのかをテーマに多国籍業の研究をした。
このころから貧富の差を是正する提言が私のライフワークになった。

自分の子供たちは当然のことながら、私を訪ねる若者のほとんどが海外に渡った。バックパッカーとして一人で世界を放浪することを若者に勧めるのが私の持論だからだ。

「広がり」を求める心を押し込めて、仕事をするよりは、納得するまで旅をするほうが良いに決まっている。

私の心の中には最近新たな絶対的価値観が生まれている。
「経験に裏づけされた確かな価値観」を持たない人間には、人生を楽しむことはできない。
経験は人としてのどう生きるかを教えてくれる。
大事なのは「人として」という前置きだ。


人生は楽しく、世界は広い。そして人間は信用できるという経験・・・・
私はそれを旅を経て手に入れることができた。
だからこそ、私はお金はないけど財産持ちだと自負している。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?