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父の記憶に残る「世界一の桃」

記憶を辿ってみても、父にほめられたことが少ない人生だった。

子育てにあまり関与してこなかった彼は、娘である私が何を思い何に価値を置き、そもそも何で生計を立てているのか、きっとよく知らなかったと思う。私が話すことは「うんうん」と聞いている風だが、結局、何も残っていないのはよくあることだった。
母が真逆で愛ゆえの依存体質なので、この軽やかさに救われた。何ごともバランスなのだ。

そんな父だが、助けを求めたらいつも手を差し伸べてくれる。そこは疑う余地もないことだった。

私が7年ほど海外で暮らしていたとき、一年に一度は一時帰国するようにしていた。そして毎度、決まって消耗した。人と会い、家族孝行のためにいつもかなり無理していた。それは次いつ会えるかわからない、という思いから来るもので、今でもその優先順位に後悔はしていない。

だがある年の一時帰国。いよいよ日本を出るという直前、胃腸炎になった。予定を詰め込み過ぎた消耗からくるストレスだろう。深夜、それは始まった。冷や汗をかきながら波のように次々襲う痛みに耐え、くたくたになり迎えた朝。普段病院に行かない私だけれど、そのときはさすがに父に連絡して、救急外来へ向かったのだ。

私はその場で「急性胃腸炎」と診断され点滴を受けることになった。父に「ちょっと点滴受けてくる」とだけ伝えてふらふらと別室へむかう私。結局、一時間半ほどかかった。受けている私も長かったが、待っている父はもっと長く感じただろう。
でもきっと、部屋を出入りするナースや誰かに時間を確認し、それまで外で時間をつぶしているだろうと思っていた。

けれど一時間半後。点滴のおかげで少し楽になった私が部屋から出ると、なんと最後に見たのとまったく同じ姿勢のまま、病院の固いベンチに律儀に座る父の姿が!そして父は私を見て眉毛をハの字に下げ、くしゃっとした笑顔で「長かったなぁー」と言った。その瞬間、私は目の奥に熱いものを感じた。

ワンマン社長で亭主関白で、とにかく昭和気質の父は、ときどきそんな風にとても不器用でそれが私にはとても愛おしく感じる。

そんな父と私の、数少ない思い出話のひとつだ。

ある年の夏、今度は父が肺結核になり急遽入院することになる。とはいっても事前には知らされていなかった。
その直前、持病の肺気腫が苦しそうだと気づいていた。いつも気丈な父が珍しく弱っていたからだ。それはただの肺気腫ではなく、肺結核とのダブルパンチだったのだ。さぞしんどかっただろう。

少し気になっていたので電話したら「今どこにいると思う?」と返ってきた。それで私はピンと来て「まさか入院してるん?」と聞くと「実はそうやねん」と電話口で少し照れながら答えた。

時期はこのnoteを書いている今と、ちょうど同じくらい。セミの声が響き、真っ青な空に入道雲がモクモクと広がる夏真っ盛りの頃だった。

このとき彼が入院していた病院は、結核に対応した数少ない病院で、お世辞にも快適な施設ではなさそうだった。でもいかにもホラー映画に登場しそうなザ・昭和な建物は、ホラー好きな私にはとても「エモ」かった。
結核患者が多いためか、世間からは隔離されたような少し辺鄙な場所にあった。そして施設の前には暑くて誰も遊んでいない公園が広がり、病院の施設内にも緑が茂っている。別館の一部の窓ガラスは割れたままだし、ヒビだらけのコンクリートは廃墟っぽさを演出していた。それらを生々しいまでの植物が覆いかぶさるように茂っている。何とも言えない情緒がある。

彼が入院したと知り、お見舞いに行くことに。何を持って行こうかと考えた。電話口では「フルーツが食べたい」と言っていたからスイカかメロン、それか桃かなと思い巡らせる。結局、何度かにわけてそれらを順番に持っていたのだが、その中で圧倒的に父が喜んだのが桃だった。

桃はそのままでは皮がチクチクして食べられない。誰が見舞いに来るでもない(知らんけど!)病室にナイフもないだろうから、どうしようか…。

父が「簡単に美味しく食べられる方法を」と考えて、皮を剥き食べやすいサイズにカットしたものを用意することに。ただ桃というのは、常温で放置するとすぐに茶色く変色してしまう。家から病院まで一時間近くかかるし、外は猛暑だから父がタッパーの蓋を開ける頃には間違いなく、茶色くくすんだ桃が横たわっているはずだ…。それでは外の世界から隔離された彼の、貴重な見舞いの品としてはお粗末だろう。

そして考えたのが、塩水に漬ける方法だった。よくリンゴの変色を防ぐためのノウハウとして知られる方法だ。桃でもできるかもしれないと閃いた。タッパーにカットした桃を詰め、塩水で浸した。それを保冷バッグに入れ、保冷剤で隙間を埋めた。そのまま列車とバスに揺られて病院へ。父に会う直前、給湯室のような場所でその塩水を捨て、持参したミネラルウォーターでサッとすすいだ。
ひとつずつは小さなことだけれど、この愛のひと手間はきっと桃を通して父に伝わったのだと思う。それは、この後の彼の反応でわかった。

ちょうど世界中で経験していたパンデミックの年で、お見舞いと言っても彼と直接会うことは許されなかった。病室に入るなんてとんでもない。詳しくはわからないが、その頃には彼は結核の菌を飛ばすこともない状態になっていて、会うことに問題はないはずだったのだが…。

でも看護師さんが、それはあまりに可哀そうだから父を呼んでくれると言う。彼がひょこっと部屋からローカに姿を現した。私が同じローカの入り口辺りに立ち、「お父さーん!」と声をかけ合える距離での対面となった。今思っても、何とも妙なスタイルである。でもそれがなんだか面白くて父も父で「はー--い、お父さんですよぉー--」と手を振りながら、少しずつ私の方に近づいてきた。それは無意識のようで、あまり近づかないようにと看護師さんに軽く注意を受け、(あ、そうやった!)という顔になった。

彼は元気そうに見えたが、腹水を取るためのチューブを体からぶら下げて、さらに酸素ボンベを歩行器のようにして歩いていた。そして少しやせた父を見て、またお見舞いに来ようとひとり誓った。

このお見舞いの後、電話で「あの桃な、美味しかったわ!瑞々しくてなー」と繰り返すので、その後も退院まで何度か桃を持って見舞った。

彼は3週間ほどで退院。その後も半年ほど薬を飲み続け、保健所で経過観察を受けながら、無事全快にいたった。退院直後こそやせ細っていたけれど、人の体とは不思議で、普通の暮らしを送っていると順応して戻るようになっているみたいだ。彼が「一瞬病人」だったことは、意識からすっかり抜け落ちてしまった。

あれから何度か夏が巡った。そしてそのたびに父が伝えてくるのだ。「あのときの桃な、ほんまに美味しかったで。世界一やと思ったわ!」と。
安物ではないが、決して贈答用などの特に高級品ではない。でもあのタッパーに詰められたカットした桃が、父にとっては世界一なのだ。きっと入院中の退屈な日々を彩る、一瞬の楽しみだったことも手伝ってそう記憶に残っているのだろう。

父からあまり褒められたことがないからこそ、このエピソードは私にとっても深く刻まれるものとなった。いや、書いていて気づいたが、もしかして父が褒めていたのは私ではなく、桃かもしれないな!

「それだけ喜んでくれるなら、これからもずっと用意してあげるからな!」と私が言って、父がニヤッと笑った。
でも、それはある意味叶わなくなってしまった。今年の桃の時期を待たず、彼はあっけなく旅立ってしまったからだ。肉体を必要としない場所へ…。

もうじき初盆を迎える。私が用意するものは決まっている。可愛いピンク色をした、たくさんの桃。ちょっぴり高級なものにしてもいいな。供えたら痛む前に私も食べて、供えたら食べて…。きっとこの夏は、私もたくさんの桃を食べるのだろう。父と一緒に。

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