見出し画像

#106 木に登る能力で魚を判断することはできません

 海外の英語のサイトに上のような風刺画がありました。
 先生は生徒たちを目の前にして次のようなことを言っています。
「不公平にならないように、みんなには同じテストを受けてもらいます。さぁ後ろの木に登りなさい」と。
FOR A FAIR SELECTION EVERYBODY HAS TO TAKE THE SAME EXAM: PLEASE CLIMB THAT TREE

 ちょっと極端な風刺画のように感じます(もちろん風刺画なのでわざと極端にしているのかもしれませんが)みなさんはこの風刺画をごらんになってどんな感想を持ちましたか?

 これは、画一的に教える公教育を批判しているのだと思います。個人の能力や性格を無視して全員に同じような教育を施すという教育体制を風刺した絵なのではないでしょうか。足が長かろうが、手が長かろうが、それを活かす登り方をNGにして、「教科書通り」の登り方を「覚えさせ」、「教科書通り」の答え方をテストする。この風刺画だと、木登りに適した特性のある猿が高く評価され、それ以外はすべてダメということになってしまいます。(魚に木を登ってみろという試験自体が私にはむちゃくちゃだと思いますが)
 私は、この風刺画の問題点は、木登りだけで動物たちを評価しようとしているところなんだと思います。(もし木登りが得意な人を見つけたいと言う目的でこのテストをやるのなら、それはそれで意味があるとは思います。)このように勉学や運動などの一部の分野だけで評価してしまっている公教育へ警鐘を鳴らしている風刺画なのだと思います。
 しかし、私が実践してきた小学校では少なくともこのような子どもの一面だけで評価をしたことは一度もないと断言できます。日本の小学校の先生は、子どもが学校にいる間中ほとんど一緒に学校生活を送っています。子どもたちと一緒に授業をし、一緒に掃除をしたり、一緒に給食を食べたりしています。つまりどういうことかというと、日本の小学校の先生は一人の子どもを評価する物差しをたくさん持っているということです。少なくても子どもの一面だけで評価するようなおろかなことをしている先生はいないと思います。
 では、中学校・高校・大学はどうでしょうか。教科担任制です。残念ながら先生方はその教科という物差しでしか子どもたちを見ていません。(というか自分が教えている教科の側面でしか子どもたちと接点がないのだから、ある意味それはしかたのないことなのかもしれません)となると、風刺画のようなことが起こりかねないのではないでしょうか。

 もし、この風刺画に出てくる動物が、ニホンザル、チンパンジー、オラウータン、ゴリラだとして、これら猿のカテゴリーに入る動物たちに先生が同じような質問をしたとしたら、どうでしょうか。おそらくそれぞれの猿がそれぞれ個性的な登り方をして見せるのではないでしょうか。

 またもし、私がこの先生だったら、「さぁ、生徒のみんな。一番得意なことを私に見せてくれないかな。」っていうと思います。

 しかし、学校は学校としての役割があり、限界もあります。そのあたりを補完できる学校外の時間に注意を向けることも大切だと思います。学校教育に子どもの教育をすべて押しつけて任せっきりにしてしまうことが問題なのだと思います。そして、木登りの適正なしでも泳ぎの得意な魚や、体の大きな象が活躍できるそんなそれぞれの個性を発揮できるのが健全な社会なのだと思います。

 アインシュタインが次のような言葉を残しています。
“Everyone is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid.”

 アインシュタインはこう言っています。「みんな本当は天才なんだ。でももし魚が自分の能力を木登りで判断されたなら、その魚は一生自分のことをバカだと思い続けるだろう。」

 子どもを評価する立場の人は是非この風刺画とアインシュタインの言葉を胸に刻んで欲しいと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


よろしければサポートをお願いします。これからもみなさんに読んでいただきよかったと思っていただけたり、お互い励まし合い、元気が出る記事が書けるよう有効に使わせていただきます。