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葬儀と僧侶と責任と


昨年末、わずか1ヶ月の間に2人の祖父が相次いで亡くなった。父方の祖父の葬儀が終わった数日後に母方の祖父が危篤状態という連絡があり、数日後には逝去してしまった。

通夜・葬儀に出席したことがある人であれば誰でもイメージできると思うが、読経で涙を流すのが日本人にとっての「葬儀のアイコン」ではないだろうか?

しかし、父方の祖父の通夜では家族・参列者も含め読経で誰も涙を流していなかった。私も18歳で家を出るまで祖父と一緒に生活をしていたのにも関わらず涙が出ない。むしろ気持ちが冷めていくような不思議な感覚に襲われた。その感覚は私だけでなく家族全員が感じたようだ。原因は家族一致で「僧侶の読経があまりにも下手だったから」ということになった。それに加え法話のない、戒名の説明すらもされない僧侶の態度に憤りを覚えたのは言うまでもないだろう。もちろん、翌日の葬儀でも下手な読経に涙を流す参列者はおらず、ようやく家族・身内が涙を流したのは出棺のタイミングになってからだった。


あきらかに葬儀のクオリティーを壊したのは僧侶の存在だ。しかし、不満は持っているものの実家の家族には「僧侶を変える=菩提寺を変える」という選択肢はないようだ。「檀家制度」という「常識」の前では不満・不信感を持ったとしても、ダメな僧侶と今後も付き合って行く以外の選択肢がないのだという。

嫌なものを嫌と言えない
悪いものを悪いと言えない

それで本当に良いのだろうか?

私は決して、仏教そのものの存在や檀家制度が間違っているという気はない。
しかし、今回の僧侶のように個人レベルで明らかにダメな僧侶は確実に存在する。他の職業がそうであるように、僧侶であってもプロフェッショナルとしての仕事をする責任があるはずだ。それが出来ないのであれば続けるべきではない。

人生の終わり方を計画する「終活」がシニア層でブームになって約10年。自分の葬儀で誰も参列者が涙をしてくれない葬儀になる前に、自分の葬儀を執り行ってくれる人とのコミュニケーションをとり、クオリティーの確認をしていくことを強くオススメする。

(text by Nasser)

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