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他人の行動は変えられるか?

noteで、
「誹謗中傷」はダメだが、「批判」なら良いのか?
というタイトルで記事を書きました。
これを書く時に、改めて「批判」という言葉の定義を調べてみました。

上の記事中でも書きましたが、「批判」の定義として
1.物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2.人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。

とありました。

その後いろいろ考えてみて、この定義における1と2の間の大きな隔たりの存在に気づきました。
今日はそのことをスタートラインにして記事を書いてみたいと思います。

私が今回重視した1と2との間の隔たり。
それは、「1は単なる判定・評価」であるのに対し、「2は正すべきという他者の行動変容が含まれている」点です。
英語で言うと、1が自動詞的で2が他動詞的という感じでしょうか?
(厳密にはそうは言えないでしょうが、あくまでイメージ的に)
もう少し具体的に言えば、Twitter上である意見や行動を目にして、それが自分の価値観と相容れなかった(自分としては「間違っている」と感じた)時、単に「こういうことは自分としては正しいとは思えない」と表明するだけであれば1の意味、「あなたはここを改善すべき」といったDMを送ってしまえば2の意味になるでしょう。

そして、今日私が書きたかったのは、このように「他者の行動変容に自分がどう関与するか」という話です。

大前提として、私は自分自身が他者の行動を変える権利は持っていないと考えています。
限られたケースとして、私の家族(特に子供)が何か間違ったことをすれば私に責任が及びますし、そもそも子供を育てるという観点で言えば子供を教育する義務は私にあり、何か間違ったことをしそうになったらそれを正す役目はあると思っています。
また、会社で部下や後輩がいる場合、基本的な生活習慣や会社でのルール等に関して、これも部下や後輩の行動は一部私に責任が及びます。部下や後輩の行動をよりよいものに指導していく義務と責任は(ある程度まで)あると思っています。
こういった、社会の規範や組織のルールで私が「教育」すべき立場にあれば、当然その立場を全うする必要があります。
(こう書いてみて改めて思いましたが、私の場合は会社で「教育」する対象がそれほど多くないですが、学校の教員などはそもそも「教育」することが本業なわけで、それに伴う責任の重さを改めて感じます。)

こういったケースを除き、私は自分と異なる意見、相反する意見などを目にしたとしても、私は「1の意味(判定・評価)」でのコメントはするかも知れませんが、「2の意味(正すべきであると論じる)」ところまで踏み込むつもりはありません。

今後、私はnoteなどで有益な情報(と自分が思えること)を提供していきたいと思っていますし、それがnoteを始めた動機です。
ただ、繰り返しになってしまいますが、他者の行動を私が変えられるとまでは思っていないので、「こういうことをするといいですよ」「こういうことはお勧めですよ」ぐらいの表現に留めると思います。
(もしかしたら、すごく好きなものを紹介する際に「お勧め」の言葉のトーンが強くなることはあるかも知れませんが)
裏を返すと、読んでいただいた方が「なるほど、参考になったから真似してみよう」「この考え方は取り入れてみよう」というように思っていただき、自発的に行動するような書き方になっていれば幸いですし、極力それを目指したいとは思ってはいるものの、そう判断すること自体をすべて読者の方に委ねる、ということです。

私の考えは伝わりましたでしょうか?

<2020.6.3追記>
自分としてはかなり熟考して書いたつもりなのですが、結論の部分がまだわかりづらいですね。具体的には、スポーツのコーチが選手を指導する際にどれぐらいまで強制力があるべきなのかとか、それほど親しくない相手にアドバイスするのは必要なことなのかとか、こういったことを今後考察していくときのベースになるような考え方を書いたつもりです。
もう少し具体例が積み重なっていくともっとわかりやすくなると思いますので、ちょっと長い目で見ていただければと思います。

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