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時速6km/hの旅〜相模原→横浜24kmに残した足跡〜未完のままで

(1)

 「はい、もしもしYです。ただいま外出しております。ご用件が...」

 メッセージが終わる前に公衆電話の受話器をおいて、私はタバコの煙をはきながら溜息ついた。11月19日、火曜日午前2時。吐息は白かったが、それがタバコの煙なのか冷たい街の空気のせいだったのかは知らない。Yは大学時代の友人で、町田にある会社の寮に住んでいる。たいてい火曜日、水曜日が彼の休日で、もしかしたら休日前の追い込みでまだ会社に残っているのだろうとも思ったが、会社の電話番号は知らなかった。とにかくこれで私は最後の望みを絶たれたのだった。

 国道16号線 ここは相模原。「横浜 24km」- いつもは単車に乗って走りながら見る標識がその時はやけに大きく見えた...

 ... 久しぶりに仕事帰りに会社の先輩達と一杯ひっかけた。積もる話もあって、一杯のつもりが一杯ではすまなくなった。途中から一人二人と合流して軒を変え、その変えた軒も店じまいで追い出された。店を出たときにはまだ私の乗る東横線の終電に間に合ったのだが、駅に向かう途中に消えかけた話題にまた火がついて駅前で30分。だれかが気付き、慌てて時計を確認したときにはすでに遅く、万事「休」す。万に一つの望みをかけて駆けこんだのが、小田急線。朝夕のラッシュアワーには鬼のような憎っくきこの電車だが、今は相模大野行最終電車が天使のドアを開けて待っている。町田より一つ向うまで行くこの電車ならYのアパートにたどり着ける。念のため連絡してからと急いで電話へと走ったが、不在だった。大丈夫、町田に着くころにはきっと帰っているはずと電車に飛び込んだ。新宿や渋谷で一夜を明かすのは簡単だが同じシャツを着て翌日出社するのは避けたかった。始発を待って部屋に戻ることも考えたが非常に苦痛に思えた。酔いのせいだったのか、不思議にYが戻ってきていない場合のことは全く考えていなかった。


(2)

 ...24kmの道のりを前にして一歩踏み出すのをためらわないわけでもなかった。アパートに戻り、休息を取り、定刻までに会社に出向くために可能な、あらゆる手段を考えた。相模大野の駅前から16号線に向かう途中、24時間営業のファミリーレストランを見つけた。ここでなら寒さもしのげるし、コーヒー1時間、紅茶で1時間ねばって滞在しYへのコンタクトを何度か試みることもできるだろう。しかし、いつ帰ってくるかわからぬ友人を待ち、ここ相模原にとどまることもリスクが大きかった。始発の電車に乗っても、横浜を経由すると会社には間に合わない。相鉄線はどうだ?いや最寄りの駅までも遠いし、そこから横浜の駅までも遠い。他に何かいい手はないのか? ファミレスの前を通りすぎる10歩の間にそんな「読み」が脳裏を駆け抜け、結局、持ち前の気楽さと程よい酔い加減が、己が両足にGOサインを出してしまったのである。

  ...こんな夜更けなら単車で飛ばして30分。歩くのなら、まぁ、4倍にして2時間もあれば大丈夫さ、とその時は考えたのだから恐ろしい。「単車で飛ばす」のが時速80kmとすれば、2時間で着くには時速20kmで進まねばならない。自転車で「気持ちよく」走る速さである。(マラソン選手は偉大である。彼等は倍の距離を半分の時間で走破するのだ!すごいな、神大、箱根でがんばれよ!)計算ができなかったのも愚かだが、「横浜まで24km」の標識を見て大げさだと否定し、根拠のない自分の土地感を信じようとしていたのにもあきれてしまう。いや、そうでもしなければ勇気も湧かなかったのかもしれない。

 ウォークマンの電池が途中で切れるのを予測し、補充した。ヘッドフォンを耳にねじ込み、ヴォリュームをMAXIMUMに上げ、SWOOPをうならせた。

 そして私は16号の立体交差点に乗った...


(3)

 ...片道3車線の16号線は、広かった。横断歩道を渡ろうとして、うっかりマイペースで歩こうものなら渡りきる前に信号が変わり、車が「まて」をとかれた犬のごとく焦ってとびだしてくる。恐ろしや、ミッドナイトシティの猛獣達よ!私はアパートまでの道のりで、複雑な交差点や、歩行者が通れないようなポイントを予測した。途中に高速道路との合流があったり、歩いては通れないトンネルがあるのは何度も利用して知っていた。豊富な経験から急場をしのぐ、この格好良さが男には必要だ。にもかかわらず、つい私は歩道のない高架に乗ってしまい、猛獣達が粉塵を舞いあげ爆走するすぐそばを、泣きそうになりながら渡った。泣きたいときも素知らぬ顔して濶歩する、そんなやせ我慢も男の美学の一つである。SWOOPのリズムに合わせ、時々拳を振りあげてかけ声あげてると、まるで世の中には自分一人しかいないような気分になって気持ちがよかった。

 真直ぐにのびる道は嫌いだ。どこまで続くのか見当がつかない。まして似たような街並みが、本当に進んでいるのか不安にさせる。電柱を通りすぎてまた電柱がやってくる。ものすごい速さで、黒光りのスポーツカーが走りぬける。

 ところどころ自動販売機で缶コーヒーを買った。すぐに蓋を開けずにまず手を暖めた。田舎を思い出す。あの人とまだ出会ったばかりの頃、終電まで羽黒山で時間をつぶしたっけ。寒くなるとこうして缶コーヒーを一本ずつ買って二人してあったまったっけ。今日と同じように吐息が白く、鼻も真っ赤になっているのにけらけら笑って楽しかったっけ。そんな思いに耽っているうち、ほどなく缶は冷たくなった。渇いた喉に一気に流しこんでは歩いて歩いた。


(4)

 ...初めの1時間は酔いの勢いでぐんぐん進んだ。次の1時間は妙な好奇心と思わぬ冒険の興奮で過ぎ去った。疲れが出始めたのはそのあとだった。見積もった2時間が過ぎたのにまだ半分しか来ていない。ここで夜明けを待っても駅も電車もない。歩くしかないが果たして後半は同じように歩けるだろうか。心細くなると人は弱いものである。

 道脇のバス停の待合小屋の電気がついている。もうとっくに、バスなど走っていないのにこうこうと明りがついている。私は幼い女の子の声を耳にした。

「腰をかけてお休みなさいよ。まだまだ半分来たばかりよ。これから先は長いんだから、ね? 自販機もそこにあるし。」

 (そうだよ、この先このまま歩き続けるなんて体力やら能力にも限りがあるんだから。この前の正月に石巻から田舎の家まで歩いたなんて言っても考えてみれば10kmもなかったじゃないか。うん、うん、そうだよ休まねば。)

そうして待合室に吸い込まれそうになったとき、SWOOPがAPPLE EYESのイントロを弾いた。我に帰った私は、少女を否定した。

 (妖精でもいたのかしらん、いや、そんなのは自分を甘やかす自分が、得意の声まねでささやいただけだよ。おまえは今は歩くんだ。)

 今度は珍しく厳しい自分があらわれて私の体を休ませずに冒険を続行させたのだが、妖精は本物だったらしい。せっかくの施しを無視した私に、彼女は可愛い仕返しをした。靴の紐が徐々に緩んできたのである。固く結わえてあったのに、2時間歩いてきて何にもなかったのにここで緩むとは、きっと彼女が小さな手で一本ずつ引っぱったにちがいない。立ち止まって結わえ直せばいいものを、億劫に感じてそのまま歩き続けた私は後でひどく後悔することになる。


(5)

 ...APPLE EYESの曲が終わるとウォークマンの電池が切れてしまった。私は鞄から新しい電池を取りだして歩みを止める事なく慎重に入れ替えた。乾電池なら4時間もつ、いやもってもらわないと私の気力がもたない。おぉ、この世の音を司る神よ!この闇の静寂のなかで、今は私にSWOOPを与え給え!

 国道16号線は途中保土ヶ谷バイパスと分岐する。この大きな道路は横浜まで真直ぐ一直線に通じているのだが、歩行者はバイパスを通れない。私の歩くいわゆる「下」は本当に静かだ。これまで気持ちよさそうに私のそばを飛ばしていたかっこいいスポーカーも、日本各地の地名を掲げたでっかい長距離トラックも、連なっては屋根の上のランプが灯篭流しの堤灯のようだったタクシーもみんないなくなってしまった。車道も一車線ずつになった。街灯どうしの間隔もだいぶ広く、その真ん中は真暗になっている。私の姿が闇から浮かび上がってはまた消える。車が来るとヘッドライトが私の影をぐんと大きくしてはあっさりと黒の空気に置き去りにする。

 道の先では路肩の工事をしているらしい。現場に近づくと向こうからヘルメットをかぶった作業員が二人歩いてきた。彼等は私のことを同僚か何かと思い親しげな顔をこちらに向けたが、灯りの下にきた私をみると途端にいぶかしげな表情に変わり、会話を途切れさせたまま無言ですれちがった。まだバスの始発にも早すぎるこんな時間にまったくの普段着で、真っ暗なこんな場所を淡々と歩いている男が一人。きっとそれまでの話題は宙に浮いたまま、彼等はこの不可思議な男の真相をあれこれ推測し、あり得ない想像はこの宇宙よりもはやいスピードで膨らんで私は夢の主人公になり、星になり、流れて消えたのだろう。いや待て、教えてあげよう、この星は消えないよ。流れ流れて行き着く先は横浜さ。もう一つ教えてあげよう。星が流れるとき、星は熱くなるのさ!...そんな事をふらふら考えていたら右足のすねに「はり」を感じ、途端に重くなった。立ち止まり触れてみると少しだが熱をもっている。流れ星は大地に落ちる前に燃え尽きる。この流れ星もまた燃え尽きてしまうのか。


(6)

 ...朝アパートを出るときにはまさかこんなことになるとは思いもしなかった。靴も長距離を歩くのに負担の軽いものなんてわざわざ選ばなかった。しかしそれにしてもなぜかこんな日に限ってあまりもっていないはずの紐のついた靴をはいている。若干大きめのサイズが災いして靴の中で足が落ち着かない。固く結わえたはずの紐が緩む。疲れが出はじめるとそれまで気にならなかった小さなことが非常に苦になる。しかし腰を下ろして休む場所はない。あったとて休むことは許されない。時間の見積もりの誤りに気付き、尽きてきた体力を考慮にいれて計算しなおすと、部屋に着いてから支度をかえて会社に向かうまで床に就く時間はない。これ以上の遅れは許されない、残された道のりはまだまだ長いというのに条件は厳しくなっていく。

 タクシーを使えばいい!相模大野の駅からでは料金も相当かかって給料日前日の懐では底に穴があいたかもしれないが、ここからなら一日分の食費ぐらい残るだろう。しかし先ほどのバイパスとの分岐以来タクシーは一台も流れてこない。来てもランプが消えている。ナンバープレートをみると相模からの車だ。夜勤明けで家に帰るらしい。タクシーをつかまえることもできなくなった私は、誰が見ているわけでも聞いているわけでもないのに独りで強がった。ここで車に乗ったのではこれまでの苦労が全て無駄になってしまうではないか。金も時間もさることながら、これまで怪しい真夜中の歩行者をさりげなく私流にごまかしてきた演出が、笑えないエピソードに終わってしまう。武勇伝を打立てろ。ここは歩け、歩くのだ。おまえの歩いてきた道をそしてこれから歩いていく道を明日は誰かが歩くだろう。人は問う。何故歩くかと。彼は言う。そこに道があるからと。歩く英雄は道を選ばず、靴を選ばない。...私は英雄になるはめになった。


人生いろいろ… いらいらもあるけれど うるうるもありありでー