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織部とアディダス

先日、久々にお茶を点ててみたとき、
使った道具にあまりトキメキを感じられなかった。
そこで自分で使う茶道具を作りたく、久々にろくろに向かった。

学生の頃は、いわゆる伝統的な釉薬を無視して、
いかにトリッキーでエキセントリックな化学が炸裂するかで釉薬を選んでいたけど、あれから茶道を少し勉強して、道具と人間の関係をガチで考えてみると、どんな物語が豊かな気分にさせるのか、が必ずついてまわる。文脈を無視した突飛さだけでは、物語が作れないことが分かった。
そして、物を、語る、には自分が今どこに立っているのかを知っている必要がある。
自分より若い世代の人たちが、今やPCでどんな音でも作れる時代に、わざわざ古いRolandのTB-808のスッカスカな音や、フェンダーローズのサンプリングなんかを使っているのを見ると、自分たちはどこから来てどこへ向かっていくかを表現するのに、ある種の伝統文化や儀式を(単なるノスタルジーでなく)通過しようとしているように見える。
なんとなく、今回の器作りは勝手にそれに似た感情だと思っている。
あと、茶道を題材にした「へうげもの」というモーニングの漫画が好きだった。自然への観察眼と、季節の風情というこれまでの茶道の美意識の源泉に加え、「笑い」という美観をフィクション上に追加した思考実験が面白いので、粘土に向かうにあたって、主人公の古田織部にオマージュを捧げつつ、
古田織部が美濃でディレクションしたと言われる、酸化銅を加えた織部釉薬を使おうと、粘土が固まる前から決めていた。

一方、工芸とストリートカルチャーを混ぜるアートワークをやっているので、ただ作るのでなく、ちょっと捻りたかった。
暴走族を、よくヒップホップ黎明期と比較して考えていたので、頭が完全にそっちに寄ってしまい、アディダスの3本線を思いついてしまった。
去年(2019年)、EUの裁判で、アディダスの3本線そのものには商標権を認められず「普通の図形」ということになった。
ウェアや靴など指定された品目以外は使ってよさそうなので、どんな表現があり得るかは試す価値がある。

ちょうどいい。
マスプロダクトの武器である商標権に隙間を見つけ、工芸の一点モノでアンサーしていくことで、新しい価値が見つかったらいいなあと思いながら、脳内で掛かるのは、RUN DMC「My Adidas」。

昔、Jam Master Jayモデルのスーパースター(紐抜きで履けるようにタンがゴムバンドで留められている)を履いていただけど、ラインが緑だった。あれは多分、織部の緑だったんだな。

焼きあがった織部×三本ストライプ。

抹茶茶碗のほか、建水、片口のシリーズ。
炎と化学の力を借りる間は、自分の手を離れてしまうので、細かいところまでは思い通りにいかない。でもそれが面白い。
エナドリのモンスターにも見えること以外は気に入っている。
これで茶事を開き、正客が茶碗について尋ねたとき、主人は「織部、アディダス仕様でございます」とでも答えるのだろうか。
楽しみだ。

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