見出し画像

6月、街は雫の落ちる音に満たされていた。
成瀬は拘置所に事情聴取のために訪れていた。2日後のメイの誕生日のプレゼントを考えながら、彼は看守に一礼を交わした。
「どうぞ。」重厚な扉が開く。黒板に爪を立てた時の音にも似た、この世の中で彼が一番嫌いな音だった。一人の男が入ってきた。身長は170cm程で、特徴が特にないのが特徴、といったところだろうか。まるで昨日すれ違った気がするような、そんな風貌だ。
「宜しくお願いします」低めのバリトン。その声は成瀬に二児の父親を想起させた。
「宜しくお願いします。早速話をうかがっていきたいのですが。」
「大丈夫です。」
「ありがとうございます、では。あ、座って下さい。」
成瀬は鞄の中からファイルを取りだし、資料をすぐ見える位置においた。
「性的暴行、ですか。罪状は」
「そうなっています。」
「そうなっています、といいますとなんだか納得されていなさそうですね。」
この事件は割に息が長く、拘置所の彼、菅は妻に暴行を働き、通報を受けて逮捕された。そして菅は妻に働きかけた行為については認めつつも、それが暴行であるということについては否認しているようだった。
「暴行ではない、と。」
「はい。一種の愛情表現です。」
菅は定式に当てはめるように淡々とのべた。
「愛情表現で逮捕されると思いますか。」
「思いません。だから私にもわからないんですよ。どうして捕まっているのかさえも。」
菅は憤慨している様子だった。実際、事件が発覚して一ヶ月もたつにも関わらず彼は釈放もされず、明確な処罰も受けていない。成瀬は菅と以前関わった同僚から忠告を受けていた。「彼は偏愛者だ、飲み込まれるな」と。

「それじゃあ私は暴行、ではなくひとつの愛情表現として留保しますよ。何をしたのか、具体的に示せますか。」
「はぁ。他人から性交渉について聞かれるとは夢にも思っていませんでしたよ」
菅の嘲笑に成瀬は無表情を保った。菅の表情には恥じらいと誇らしさが併存していた。だが成瀬はそんな彼に対して少しも嫌悪を抱かなかった。
菅は耳への執着が高まり、彼の彼女の耳をなめ回し、ついにはピアスの穴のところへ歯を掛けて食いちぎった、と成瀬の資料には記載されていた。
「耳を、食いちぎった、とありますが。」
「自分の中に彼女をいれておきたくなったんです。入れることはできても、入れられることはないでしょう?」
「ほう…でも、どうして耳なんです?」
「官能を感じる箇所は人それぞれ違います。それに理由付けすることはできないでしょう。ただ、私は耳が好きなんです。」
耳、一言にいえど形は様々である。成瀬は彼にその魅力を聞き出そうとした。
「どういった形がいいとかもあるのですか」
「そうですね…私は割にスラッとした耳が好きですよ。あとは見えそうで見えないような、隠れている感じもあれば尚いい。」
「見えそうで見えない、みたいな。なるほど、少しわかるかもしれません。」
「結局裸に官能を感じる為には隠されていないとダメなんですよ。皆が裸だったら、胸や股にたいして魅力どころか異質な嫌悪感だって沸くんじゃないですか。」
成瀬は動揺を見せまいと一度彼から目をそらして考えるそぶりを見せた。菅がこちらを見て口角をあげているように彼には思われた。
「食いちぎる行為、これは立派な暴力だと思いませんか。」
「…暴力、ですかね。成瀬さん」
暴力。成瀬はその言葉を心の中で反芻した。菅は成瀬の表情を伺っていた。
「一般に、世間の人も、そう思っていると考えるのが妥当じゃないですか」
「双方が理解を伴わない場合が暴力だとしたら、僕たちの場合それは当てはまりませんよ…愛情という双方向の関係性上に乗っかった行為じゃないですか。レイプは悪いことですよ。片方の愛しか鑑みてない。ですが双方向の愛でしたら同じ行為なのに肯定されるんです。暴力が暴力じゃなくなるんです。僕がやったことは愛情表現としての暴力であり、卑下されるものではないはずです。」
菅は淡々と言葉を紡いだ。成瀬は目を逸らそうとはせず、ただ彼を見つめていた。
「彼女は、認めていなかったのでしょう?」
「耳を噛み千切られることをですか。それはそうでしょうね。ですが、他の普遍的な性行為でもそれは実践してみない限り認めるも認めないもないですよ。」
数秒の沈黙の後、「時間です。」と看守の声が聞こえた。最後に成瀬は携帯の画面を菅に見せた。
「この子へのプレゼントを考えているんです。」
成瀬は菅の顔を見た。菅は立ち上がりざまに淡々と告げた。
「成瀬さん。僕がなんというか、お分かりでしょう?」
菅はその場を去っていった。成瀬はその後ろ姿をじっと見つめていた。

この年の梅雨は長かった。
傘の奏でる雨の音や、車が水溜まりを滑走していく音。雨の日は成瀬を恍惚とさせた。
「ただいま。」
「おかえり。」
メイは先に仕事から帰って来ていた。彼女は彫刻家で、古代ギリシア芸術を大学では専攻していた。彼女は机の上へ2,3冊の雑誌を広げてそれを眺めていた。成瀬はシャワーを浴びた後、彼女を膝の上に乗せて共に雑誌を見ようとした。しかし彼の目は雑誌を認識せず、彼女の耳に全ての認識、感情が注がれていた。先日彼が誕生日にあげた赤い飾りのついたピアスは艷美であった。一層魅力的になったメイの耳は処女を捨てるのに似た官能を成瀬にもたらした。それに気づいて恥じらいと共に欲情する表情を浮かべたメイは成瀬のほうを向いた。しかし成瀬は彼女を見ていながら、彼女を見ていなかった。
ベッドの上で彼女の耳へ彼はキスをする。彼女の髪が少しかかった耳から髪を退かす行為は再度彼を興奮状態へと引き上げた。あの面会以来、彼は菅の言葉が忘れられなかった。 ふと気づくと成瀬の口には鉄の味が広がり、甲高い叫び声が耳を突き刺した。メイは突然の痛みと恐怖にただ発狂した。虚ろな彼女の眼に写っていたのは口のなかで何かを転がしながら、恍惚とした笑みを浮かべている成瀬であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?