【🔍調べてみたら】なぜ「器」が将軍の“権威の象徴”になったのか?(前編)
1ヵ月ほど前、瀬戸焼のまねき猫を買った。
“祭”という、あまり似つかわしくないワードを背負ったそのまねき猫は、すべて手作りで顔が描かれているという。
そのせいか、色々な表情のまねき猫があったが、漫面の笑みを浮かべつつ、しかしながらひと際眉間にしわの寄っている個体を選んだ。
それは、松下幸之助のこの言葉をいつでも思い出せるようにだ。
瀬戸焼は非常に古くから作られており、その製法は平安時代から現代まで脈々と受け継がれてきた。
他の焼き物、肥前焼や信楽焼などの各地の焼き物と異なる特徴として、元となる土によって生み出される“白さ”がある。
白いと何が良いかと言えば、塗りやすく何色にでもすることができるという点がある。「つくれないものはない」と言われるのもその所以だ。
陶磁器の製作は、通常「成形」→「素焼き」→「釉薬(塗料のようなもの)を掛ける」→「本焼き」という流れだが、その白さにより様々な釉薬によって彩られ、形作られた。
しかしながら、この長い歴史を持つ瀬戸焼も、ずっと安定して製造されてきたわけではない。これまでに様々な局面に立たされながら現在に至っている。
安土・桃山時代、わび茶の完成や茶の湯の流行も相まって、天目茶碗、水指、建水などの茶陶関係のものが生産された。そしてこれらの器種の多くは、全国をはじめ、畿内を中心とした上層階級や町衆らの新興階層の需要に応じて生産された。しかしながら、その頃の主要生産地は、瀬戸よりも美濃(岐阜)のほうが隆盛を極めていた。
それに応じて、窯業生産の中心は瀬戸から美濃へ移り、陶工達は離散することになる。
このような逆境の歴史の中で、瀬戸焼の再興に向けて尽力した人物として、初代尾張藩主 徳川義直がいる。
徳川義直が東濃地方に離散していた瀬戸の陶工達を呼び戻し、彼らを藩のご用窯として保護したり、諸役の対象から外すなどの保護を加えた。
これにより瀬戸焼は、賦活していくことになる。
しかしながら、この瀬戸焼の復興には、幕府と陶工のあいだのギブアンドテイクがあった。
美濃から陶工を呼び寄せ、御窯屋という特別な地位を与える代わりに、瀬戸だけでなく名古屋城の下御深井御庭にも窯を築いたのだ。さらには瀬戸から上質な土も取り寄せ、御庭にある瀬戸山という窯で焼き物を生産した。
当初の目的は「贈答品」としての陶器を自前で作るためだった。贈答品としての焼き物は、新たな尾張の統治者としての権威を様々な階層の人たちに示す役割があったと考えられている。
ここで疑問が生まれる。
なぜ器なのか?なぜ器が“権威の象徴”となったのか?
この問いを読み解くヒントとして「象徴」というワードに注目する。
身近な「象徴」と言えば、鳩→平和、天皇→日本がある。
目に見えない抽象的なもの・存在を、具体的な“モノ”で表し具現化するのがその役割だ。
この「象徴」は、しばしば人間社会ではコミュニケーションの手段として用いられる。後編では、この「象徴」にまつわる一連の理論をもとに、先の問い「なぜ器が“権威の象徴”となったのか?」について分析していく。
【瀬戸焼に関する参考サイト】
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