1年前に書いた意味わからん文章 うそにっき

過去の色々を漁ってたら出てきた。意味わからんけど自分的にはまあまあ面白かったので修正とかせず置いておきます。

うそにっき すいみん


何度も発言してきたことなのですが、私は異様に寝つきが良くて、「ほんとにすぐ寝ちゃうんです」と先に知らせていた人にもなお感心されるほどで、
それも、かたい座席の上でも、ただの地面の上でも、物音のする部屋でも、もちろんふかふかの布団の中でも、どんな場所でも大抵そうなのです。

小学生の頃に、頭に浮かんでいた光景なのですが、さあ寝るぞ、と意気込んで、まぶたをくっつけ、青暗あい意識の中で、とん、とん、とん、とゆっくりとしたリズムを刻む、ということを暫く繰り返していますと、
押し出した貨物が、がたごと動くレーンにのっけさえしてしまえば勝手に進むように、私の意識の本体のようなものが遠くまで、まるで出荷でもされてしまったみたいに運ばれてしまうのです。
後にのこった、本当に小さな私が、そのレーンの先を望もうと首を伸ばしていて、ああもう見えないや、というところまでいけば、そいつもじきにふうらふらとよろけだして、そのうち、足を踏み外して、びゃっと落ちてしまいます。
それが私にとっての「睡眠」「眠り」なのでした。

起きる時はもちろん、こんなたいくつな過程をふむ訳ではなく、がばりと起きてしまって、その瞬間自分自身が何者だったとか、何を考えていたとか、それと見ていたであろう夢の内容を思い出して、あー、自分は寝ていたのだな(自分から寝たくせに)、と感じたりしていました。

眠る時に見る、レーンで出荷されてしまう私も、その様子を見ている小さな私も、一体全体なんと説明すれば良いかけんとうがつきませんが、
これは意識を手放すまでの過程を分かりやすく頭に映し出しているだけで、比喩やたとえを、自分自身で作り出しているのではないかと、私自身は推測していたりします。
さきほど「思い出す」と言ったように、起きた瞬間は、ただぼんやりとした意識があるのみで、その数秒後にさまざまな情報が私の中に入ってくるのですが、これが「出荷された」私の大部分と呼べるものなのだと。小さな私は、きっとその大部分の私を迎えていて、それらが揃って私の自我やら、そんなものが形成されていたのだと。

ところで、このふたつをそれぞれ、小さな私、大きな私、と分けて考えるとして、
「大きな私」のほうが、起きている時に突然どこかへ行ってしまうことがありました。
疲れ伏しているときだったり、ただ時間を待っているときだったりにふらっといなくなって、
アラームがなったとか、知人に声を掛けられたとか、そんなときに、悪いね、ちゃんと仕事するよ、とぱっと帰ってきたりしていました。

そして、ここ数年、そうやって「大きな私がいなくなる」時間がとっても長くなっているのです。
仕方が無いので、アラームを止めて時間や予定を確認したり、知人と話をして笑ったり、そういう役割を、ひとりぽっちの「小さな私」が行っていて、
大きな私はどんなだったか、と思い出しながらこなさざるを得なくなりました。
なにか支障のあることが起きた訳ではないのですが、どうしても不安で、いつかごとりと、自分自身が落ちてしまう気がして、早く覚めないか、夢から覚めるように帰ってこないか、と念じたり、
あるいは、からのコンテナをレーンに押し出して眠ってしまって、起きた時に中身を受け取れないかと試してみたりしますが、
それも上手くいく時があれば上手くいかない時もあって、上手くいかなければ例えようのない焦燥感が襲ってきたりします。

帰ってきた大きな私は、何も言わずに、ただぱちくりとめをしばたたかせていました。

それまでは起きた時に記憶のみ思い出していた、寝ている間の「夢」を、気持ちの上では実際に体験するようになってしまって、
起きた時に、夢の方がきちんと「生きていた」気さえしてしまいます。

楽しいとか、美味しいとか、そんな感情に浸れている時は、彼はいつもの様に帰ってくるのですが、それが終われば、わりかしすぐに、またふらふらっと出かけてしまうのです。

もしかして、「大きな私」は、夢にいた方が心地が良いと感じていて、あのレーンの先でずっと生きていて、帰りたくない、なんて思っているのでしょうか。
この「小さな私」と一緒に日々を生きるのを、煩わしいなどとほかしているのでしょうか。
とくだん困ることはありません。彼がいないうちに、私だけでもう自分自身のことを思い出せるようになりましたし、寝つきが前より悪くなったという訳ではありませんし。たぶん、彼がいなくとも、私は私でいられるようになったのだと思います。

けれども、私は眠る時はいつも、何かを祈るように手を合わせながら、まぶたをくっつけてしまうのでした。


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