<メンタライジング能力>

<メンタライジング能力>

 最近の遺伝学によると「共感能力」は生得的なものだという。
つまり生まれ持ったその能力の程度は、生涯を通して変わらない。
もちろん非共有環境によって、つまりある程度は生育歴、育つ環境、子供の頃の人間関係で、その能力が顕在化するか、埋もれてしまう場合もあるという。

 そして最近は「ハイ・センスティブ・パーソン(HSP)」と言って、共感能力が生きづらさにつながる人が、かなり多いことが指摘されはじめた。

 それとは逆に、サイコパスという言葉は、共感能力のない人たちのことを言うが、犯罪など極端なパーソナリティーは別にして、かなりのパーセンテージでいることも指摘されている。

 私たちは、HSPとサイコパスとの間の、複雑なグラデーションをなしていて社会の中で生きている。

 人の気持ちがわからない、共感能力がない(少ない)人たちは、程度の差はあるものの、多く存在している。
実は社会的に成功している人たち、知的能力が高い人たちにもサイコパス傾向の人はたくさんいる。
 人の気持ちがわからない、共感能力がない(少ない)人たちは、程度の差はあるものの、多く存在している。
実は社会的に成功している人たち、知的能力が高い人たちにもサイコパス傾向の人はたくさんいる。

 サイコパスたちは、ではどうやって共感能力がないことを補っているのだろうか?
社会でコミュニケーションを潤滑させるためには、相手の気持ちへの理解力が必要とする。
その能力のことを「メンタライジング」というのだそうだ。
人の気持ちが理解しにくいが、メンタライジング能力のあるサイコパスたちは、共感せずとも、相手の気持ちを学び、読むことができる。
でも、もちろん、それは共感ではない。

 この社会は、結局のところ「能力主義社会」だ。
企業や政治などが、競合相手より抜きん出るためには、いかに能力のある人材を得ることが出来るか、というところにかかっている。
つまり、いかに相手や世の中をメンタライジングしながら、能力のない人材をクビにしても、裏切っても、痛みを感じないでいられるか。
そんなパーソナリティーの持ち主が、この社会のトップにいる人たちなのではないかと思ってる。

 そして、実は。この社会では、そのようなパーソナリティーが求められている。
(余談だが「維新」の躍進にはそのような背景があると、思うところがある)

 子供たちは、道徳教育などで「隣人を愛せよ」とか「慈悲心」とかを理想として教えられる。
しかし同時にこの社会に生き残るためには、サイコパスになれというダブルメッセージにひき裂かれている。
この複雑なゲームをこなせる人が、社会のトップに層を成していている。

 そして、残念ながら共感能力の高い人たちは、社会の片隅に追いやられていく、、、
ーーーーー
 もうちょっと話を進めてみたい。

 では、HSPなど共感能力が高い人たちは、どう生きればいいのだろうか?
過剰に情報や、人の気持ちを受け止めすぎて、疲弊してしまう人たちを私の周りでよく見かける。
共感力に蓋をすることなどできないのだから、結局、距離を置くことや、過剰な情報を遮断するしかないのだろう。

彼らが生き残るスペースは、もちろんこの社会にはある。
共感能力を活かした職業や、創作業に出会えば、その人の人生は光り輝く。
そして、それを受け止めてくれるニッチなスペースがこの社会のどこかにあるはずである。
ーーーーー
 さらにもうちょっと話を進めたい。

共感能力と言っても、一面的、一元的なものではない。
人の痛みに共感できる人、美しさに共感できる人、あるいは、相手のエゴに敏感に拒否反応を示すのも逆方向の感受性だ。
エゴとは虚栄心、嫉妬心、過剰なプライド、猜疑心、などなど、、、、

ーーーーーーーーーー
 セラピーにとって必要なのは「共感力」ではなく、
「メンタライジング能力」の方だ。

 我が師匠、吉福伸逸氏は、いつも私に向かって「ウォンさんは、優しいよね」という。
これは褒め言葉ではない。
ワーク中、私はクライアントにアンデンティティファイしてしまい、一緒に泣いちゃったりしてしまう。
これは、状況を読み間違える可能性を増やしてしまう。

 セラピストに必要なのは、クライアントの痛みに共感することよりも、彼らが落ちいてしまっている闇を見抜くことにある。
したがって必要なのはメンタライジング能力の方なのだ。
ーーーーーーーーー
 私たちが生きているこの社会は、ワークショップ中のようにはいかない。
相手の闇を見抜いても、それを私はどうすることも出来ないし、どうすることもしない、するべきでは無い。
そして彼らは私に「あなたは、私は傷つけた」あるいは「私を傷つけたら報復するわよ」と非言語メッセージを送ってくる。
すっかりウンザリしていることは、ちょっと告白しておこうかな、、、
ーーーーーー
 もっと話しちゃうと、
吉福ワークは、そんな自我の闇をいかに統合するかが一つのテーマだった。
自分のエゴを相対化し、日常の人間関係で、それらを横に置くことができるか、、、
その為にさまざまなワークを用意していた。
統合し、楽になることができるのか、、、
それを自我の成長というのだろうが、吉福さんは最後の本「世界の中にいながら、世界に属さない」ではっきり言ってしまった。
「成長など、ない、、、」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?