生の価値を探さなければ

僕の幼年期、日本語と僕の初めての出会いは、やっぱり僕が好きだったアニメと、特撮物のおかげでした。いろいろなサブカルチャーが好きになった僕は、初めての海外旅行だった大阪の旅を経験して日本語を始めようになりました。

その時の記憶は僕にすごく楽しかった思いに残って、そのあとにも東京、京都、長崎、福岡などに旅行して、日本についていろいろなものが好きになりました。

でも僕は日本がすきだったけど、それはあくまでも個人的な趣味のレベルでした。学業的な成就のためのものとは程遠いし、僕にも個人的な他の目標がありました。しかし、学生だった僕は様々な失敗を経て、それでも僕が興味があった他のことに目を向けてここに来ました。まずはそうですが、まだにも僕は僕が一番楽しく、それじゃないと適性に合った、うまくやり遂げられるような、僕が本気でやりたいことを探しています。

僕はいつから、現在に僕が持っていること、今の僕自身を見なく、過去に残っているいろいろな後悔とかを取り出してずっと振り返る人生を過ごしました。今はもう持っていないことを恋しがっていました。

僕の3回の出会いにもこんな僕の考えが見えます。

僕とスケボーの出会いは、僕に何も考えなくてもいい子供時代を象徴し、何も知らなかった子供に戻りたい僕を見せます

それで僕の部屋にあるギターと僕の出会いは何でも興味があればすぐに始めても僕が「ああ、それは僕が勝てない」と考えるそんな人たちが一人二人できたらすぐ諦めてしまう僕の小学生の時を思い出させます。

最後の僕とホラー映画の出会いは、中学生の時に親しかった友達との思い出を描きながら、その時を思い出させます。

出会いで僕はいつも過去をおもいだして、恋しがって、進めない僕を発見しました。そうして、僕は人の価値はどこで来るのか、どうして発見出来るのかをずいぶん考えました。僕が持っている価値はどこで確認出来るのか、ということを考えました。

僕が後悔して、憂鬱に困っても、空虚を感じても、こんなものも他人には欺瞞になるかもしれません。でも、そうしたら僕は悲しいんではいけないし、憂鬱さを感じてはいけないのか、これらの問題を意識し始めました。でも、それではその持っていることと持っていないことは誰が決めるのか、それならまた人の価値はどのように決まるのか。

こんな考えを続ければ結局僕がここから進めないと何もできないことをまた気づきました。

僕がどこに閉じ込められていた、ここを抜け出してどこかに行けないなら、僕にはこれ以上の未来は描けないんです。過去から抜け出し現在に、現在から目を移して未来を直視し、僕にできることを探さなければならないんです。

”価値は過ぎ去った過去じゃなくこれから来るみらいにある可能性がもっと高いから。”

僕はまだ自分が本当にやりたいし、できることが何なのか分からない。 しかし、それでも進むしかない。 そうせずにここに留まるなら、それは死んでいることと何が違うのか?

結局死ぬことができなければ何かを続けてするしかありません。

好きなこと-音楽とかスタイル、趣味などを研究し続けて、何かはっきりとした結果を示してから、僕は初めて僕という人間として生まれ変わることができると思います。

僕もまだ自分が何になるか、ちゃんとわかりません。僕がそれをやっつける中に壊れるかもしれません。でも、やるしかないです。この先に何があるかわかりませんが、僕はまだ若いし、時間は多くあるからです。

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