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好みの変遷-歩いてく-

とにかく忙しいのが続いた一週間だったけれど、でも、たった一週間のうちに色んなことがあった気がする。
ちょっとだけ世界が違うものに見える。
もちろん、前よりももっと「いいもの」に見える。

今日、少し大きい報告を終えて、打ち上げに焼肉食べに行こう、という運びになった。
提案者はお客さんの方だけれど、同じチームのS君は至極ごきげん。
「久しぶりの肉だー」と言うので、どのくらいぶりかと訊いたら、2週間ぶりとのこと。
それは、「久しぶり」じゃないでしょう?

S君はとにかく肉好き。
私もお肉は嫌いじゃないけれど、彼のように「焼肉」と聞くだけで心が躍るなんてことはない。
焼肉は数ヶ月に1回くらいで十分かも。

でも、その昔、中学生くらいに遡れば肉大好きだったかもなあ、、、と振り返ったりする。
それがいつ頃からか、肉より魚を好むようになり、食べられなかったはずの牡蠣が好物になり、苦くて飲めるはずもないと思ったビールを美味しいと感じるようになった。

好みというのは、変わる。

私が毎日のように読んでいる知人のブログで、ケツメイシの「歩いてく」という歌が紹介されていた。かく言う私も、最近「ケツメイシ」にはまっている。

数週間前、ふと思いついて購入した「ケツノポリス4」は、日夜、私の労働の友。
「Def Tech」と「ケツノポリス4」がヘビーローテーションで、どうやら今の私のテンションにフィットするみたい。
この手の曲は、これまでそれほど好んできたわけではないのに。

彼らの音楽には、不思議なほど共感をおぼえる。
「同世代」感覚とも言えるかもしれない。
肩の力が抜けていて、でも青臭いほどピュア。
このフィーリングが私を心地よくし、そして元気が出る。

こういう「青臭さ」に心地よさや共感をおぼえるのも、一つの「好みの変遷」のように思う。
「青臭さ」への拒絶反応が起きるのはむしろ自分が青臭い頃で、それを自然に受け入れられるのは、「青臭さ」こそ前進のためのパワー、ピュアさこそ尊くて大切なものだと、やっと分かってきたからのような気さえする。

シンプルなもの、ストレートなもの、飾らないもの。
青臭くても、熱っぽくても、本音で語れるほうがずっと素敵。

自分が好きなものの基準も、どんどんそういう方に収束していっている気がする。
たとえばそれは音楽だし、映画もそうだし、食べ物や人の好みもそうなんだと思う。

私が読んでいる知人のブログでは、「歩いてく」を彼女のフィアンセを表現したような歌だと紹介している。
そのファアンセも知人だけれど、確かに「歩いてく」の歌詞みたいに、力強くて勇敢で、信じた道をそれでも軽やかに進む人だと思う。
その上、粋でチャーミング。

男性に求めるものの一つが「サバイバル能力」というのも彼女の談で、その意見には大いに共感する。
常日頃、人に笑われながらも「好みのタイプは心身ともに健康な人」と言って憚らない私の意図も、言い換えれば「サバイバル能力」と同じ。(また別の友人は「生命力の強い人」と言っていた)

人生には、失敗やつまづきや足踏みや脱線がある。
様々な困難もあり、うまくいかないことがいっぱいある。
でも、それでも、どんなことがあっても大丈夫、そういうふうな安心感。

転ばないことじゃなくて、転んでも何度でもちゃんと立ち上がる、どんな状況にあっても自分を立て直して前に進める、そういうことを「サバイバル能力」と呼ぶように思う。
そして、自分にはちゃんとそういう力があると信じることのできる人こそが、どこまででも「歩いて」いける人。

子どもの頃には嫌いだったはずの野菜を大人になるとなぜか求めてしまうのは、体がバランスを保つために無意識に欲するものだからに違いない。
そんなふうに、好みのもの、というのは、無意識に私にとって必要なもの。

理由はよく分からないけれど、心や体が求めるものに素直に動けば、自然と必要なものにたどり着くはず。
そういう確信にも似た感覚が、私の肩をゆっくりとなでつける。
落ち着いて目を閉じて、深呼吸して安心をする。

ケツノポリス4
音楽:ケツメイシ

■2005/7/27投稿の記事
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