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それは私と同じ?-悲しみよこんにちは-

ネットニュースで1週間前にフランソワーズ・サガンが死んだと知る。
「悲しみよこんにちは」を著したときに18歳だった彼女が、亡くなったのは69歳だったという。
50年は、遥か昔のような、あるいは意外に最近のような。

サガンの作品はちっとも古いと感じない。
その「痛み」は、時代に影響されない、普遍的なものだ。

「悲しみよこんにちは」を読んだのは、いくつの時だったろうか?
大人になるとは痛いものなのだ、人が生きれば必ず悲しみの存在を知ることになるのだと、ちょうど悲しみを知り始めた頃の私は、その作品に共感をおぼえた。
青春特有の倦怠感とか、思うようにならない現実への失望とか、なんかそういうものに圧迫されて息苦しかった。

振り返っても、あるときまでは、無邪気で幸福ばかりだった。
哀しいとか、寂しいという感情がどういうものか、正直言って分からなかった。

小学校に上がる頃から、時折湧き起こるある種の「感情」があり、それはmelodyのようでもあり、それはpainのようでもある。
どう説明すればいいのか、いまだに分からない。

法則性は唯一、プールの授業の後、濡れた水着を脱ぐときに必ずそれは起こるということ。
プールの授業がなくなった高校以降には、それ以外のときにも起こるけれど。

ずっと、名前がつけられないでいた。
もしかしたらそれを「寂しさ」と言うのかな、と思い当たったのは数年前。

自分が寂しいと感じる理由が見当たらなかったので、まさかそれを寂しさと呼ぶとは思いもしなかったのだけれど、もしかしたら、そうなのかもしれない。
といっても、「誰かに会いたい」とか「誰かと一緒にいたい」というような寂しさというより、それは「人間は個体である」とか「絶対的孤独である」とかいった、宿命的な感情である気がしてならない。
だとすれば、私以外の人も皆、同様の感情を抱くことがあるのだろうか?

その胸の感情を人に伝えるのは難しい。
私も他人の感情を知ることは難しい。

今、「寂しい」と呼んだその感情は、私のそれと同じ?

もしも同じなら、逆説的だけれど、どこか寂しさが癒える気がする。

そして、それを確かめる術がないことこそが、また翻って、人の寂しさなのかもしれない。

悲しみよこんにちは
著者:フランソワーズ・サガン
訳者:朝吹登水子
出版:新潮文庫

■2004/10/3投稿の記事
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