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杜人(もりびと)を観て(矢野さんがナウシカでなくなるまで)

先日、近所のカフェで行われた「杜人〜環境再生医 矢野智徳の挑戦」の上映会に参加しました。
結論から言うと、とてもよかったです。矢野さんについてはほとんど知識0の状態で観ましたが理解ができました。
映像もきれいだったし、ナレーションも心地よく、構成もばちっとはまっていました。人間矢野智徳を撮るところと、自然の美しさを撮る場面がメリハリがあってとても観やすかったです。

耕作放棄地、土砂災害、環境汚染、人口減少など、里山が直面する課題はたくさんありますが、そのどの角度から切り取っても語れる映画だなと思います。

ある人は「地球の医者」と呼び、ある人は「ナウシカのよう」と言う。人間よりも自然に従う風変わりな造園家に3年間密着。全国で頻発する豪雨災害は本当に「天災」なのか?風のように草を刈り、イノシシのように大地を掘って環境問題の根幹に風穴をあける奇跡のドキュメンタリー。

杜人(もりびと)〜環境再生医 矢野智徳の挑戦
MORIBITO - a Doctor of the Earth -

https://lingkaranfilms.com/

一番の掘り出し物はと言えば、自分の成長を感じられたことでした。
矢野さんの言っていることがよくわかったし、じぶんも日々感じていたことだったからです。
逆に、これは視聴者によっては気を付けなければならないなとも思いました。意味を履き違えると周りから「それって宗教だろ」と言われかねない。
わたしとしてはとても矢野さんは科学的だし(言語は堅くないので一見科学的に思えないかもしれない)現代のニーズから外れてトンデモな方向に行くことなく、実に「地に足ついて」行動されている方だなという印象を受けました。しかしながら使っている言葉が一般的目線からすると独特なので、半端に理解すると、誤解を受けそうです。このことについてはあとで詳しく。

ちょっとずつ満たされない

「杜人」のなかではっとしたのは、「自然のいきものはどれも満たされていない」「ちょっとずつ満たされてない状態で均衡を保っている」というような矢野さんの言葉です。
実際に自然をよく観察していると、たしかにそういった動きがあります。
しかし基本的には生物は他の生物を淘汰し自分の種を繁栄させようとする働きが本能的に起こります。人間もそうでしょう。
満たされたい、と思うすべての生物が生きていくためには、ちょっとずつ満たされていない状態が最善である…というアンビバレントな事実。

誰もが満たされたい権利と欲望のるつぼの現代では、言いたくても大声では言えなさそうな言葉です。

持続可能な成長、SDGsという耳さわりの良い言葉だけが独り歩きし、ジレンマを抱えた資本主義社会がSDGsを免罪符にまた大きくなっていく…。
そのような実態にぴしゃりと言ってやりたい言葉でもあります。

「風の草刈り」とは

以前この映画の主人公、矢野智徳さんの「大地の再生講座」のようすをSNS上でちらりと見たことがあります。
通常、田舎に住むひとたちは地面から数センチも空けずにぎりぎりのところまで草を刈り取る、いや舐めとります。地面の地肌が見えるくらいに。そのほうが見栄えが良いからです。
しかしこの矢野さんの推奨する草刈りはでこぼこで、全然草を刈れていないように見えました。動物が通ったあとのような草の面。
その名も「風の草刈り」。そのほうが「大地」的に良いとありますが…。
一見しただけでは意味がわかりませんでした。

その実態が気になりつつ、軽く調べてみても「大地の」とか「風の」とか「水脈を」という言葉が並んでいます。正直なところ、ネットで調べるだけではその論理がよくわからない。いったいどういうことなのだろう?と思っていました。

そんなときにお知り合いが企画してくださった杜人の上映会。家の環境改善、庭、森や山を広範囲に抱えている我が家にとっては知るべき情報が詰まっていると思いぜひにと参加させていただきました。

話は逸れますが最近探究学舎の「地球解剖編」に参加していて、地球の土より下の世界の動き(マントルやプレートなど)にはめっぽう強くなりました。
地球内部にはどろどろになった高温の鉄が、0度の宇宙との温度差で対流を起こし渦を巻いています。その渦があるからプレートが動き、地震や噴火が起こる。地球は常にあつあつの味噌汁のように、ぐるぐると渦が対流しているのです。
地球はいつもとてつもないエネルギーでうねっている、そのイメージ図がわたしのなかにばちーんと入っていました。

また、自然科学が好きな息子のおかげもあって、わたしもそれなりに自然についての勉強を重ねてきたので、自然のことを科学的な側面からみられるようになっていました。
さらには田舎にUターンして8年が経ち、自然のリズムに自分のリズムがぴったり合ってきたのもあり。

この状態で「杜人」を観ると、内容がよくわかりました。
「風の草刈り」も、科学的だなと思いました。
風の気持ちになって、草刈りをすると矢野さんは言います。
風が当たるところで切る、と。

例えば海岸の松が一方向に傾いているように、風によく触れるところというのは、細胞が「感知して」いるので、それ以上育たなくなります。
また、よく人に踏まれる小道の草は背丈が短くなりますね。
よく踏まれる危険な場所に生えているのに、大きくなろうとするとエネルギーの無駄遣いだしリスキーだから、草は小さく目立たなく育つのです。

風の草刈りは、この植物の「触覚」をうまく利用した刈り方だなと思いました。
地面ギリギリに草刈りをすると、地面が露出し地崩れの原因にもなります。
風が通るようにしておけば、あとは風の刺激が生育を抑えてくれるので手間もいらないし草も触覚の感じたままに爆発的に育とうとはしないーそういった理論なのかなと思いました。
(合っているかわかりませんのでお詳しい方はコメントをください…!)

また水脈のことに関しても、常に田畑や山、庭を眺めていると、水はけの重要性はとてもよくわかります。
コンクリやアスファルトで固めると、どこかにしわ寄せが来る、というのもなるほどなと思いました。

しかし戦後コンクリの用水路ができたからツツガムシ病が減った、ということもあり、すべての物事には表裏一体の事情があります。いまやコンクリートは無くてはならない存在に違いありません。
矢野さんの手法だと、いまあるコンクリ用水路にところどころ穴を空けて、もとの自然の排水システムにやんわり近づける…ということで、これが現代と自然保護の折衷案というか、こうして歩み寄るより仕方ないのかなと思いました。

ちなみに、道路なんかは10年ほど放置すると底から根が張り、アスファルトが割れて木の根っこが露呈してきますから、勝手に矢野さんが言うところの穴が空いていくわけで、これから人口が減り使われなくなったアスファルトの道は、だんだんと自然に「還って」いくでしょう。

ヨーロッパでは、すでにコンクリートの護岸工事したところを土に戻すという動きがあったりします。

日本でも、護岸工事をしている明渠でも、中洲をわざわざ作ったりして自然に近づけるという作業は増えています。(地下につながる穴は無いと思うけれど)

矢野さんをナウシカと呼ばなくなってからが本番だ

矢野さんの活動は、少しずつではありますが、言葉通り大地に根を下ろし始めています。しかしながら、矢野さんをナウシカと呼んでいいのだろうか?とわたしは思いました。
蟲の言葉、森の言葉に耳を傾けるナウシカ。
ファンタジーの世界の救世主として、聖人ジャンヌのように描かれるナウシカ。
矢野さんをナウシカとしてしまうと、ファンタジーから抜け出せないのです。
わたしたちは、矢野さんと同じステージに行けるはずで、その土俵で同じ言葉で語らなければならないはずです。そうでなければ、現代に起こっている自然の問題(それからあらゆる社会問題も…)はよりよくならないのではないでしょうか?

おそらく、私自身都会にいる状態でこの映画を観たら、たしかに矢野さんはナウシカに見えたかもしれません。
矢野さんは、自然を長年にわたって子細に観察し、分析し見えてきた理論があります。確固たる思いと論が幹としてあって、それで活動を続けていらっしゃる。
今回、私は矢野さんの視点にはまるで及びませんが、おそらく矢野さんの見えている世界の2-3割くらいは見えたかな、と思いました。

しかし都会に住んでいて、自然と営みをしていない人が矢野さんの論を聴くと、おそらくわかるのは1割にも満たずまるで魔法のように思えてしまうのだと思います。

世界が変わるのは、矢野さんを「ナウシカ」と崇めるときでなく、「あ、矢野さんの言ってたことってこういうことだな」と多くの人が納得できるようになったときでしょう。

矢野さんと自然は、つながっているから「感じられる」。
都会の人(とここではしておきます)と自然は分断されているので「感じられない」。
〈(とここではしておきます)と書いたのは、田舎に住んでいても、自然と分断されている人はたくさんいますし、都会に住んでいても自然とのつながりが深い人は、むしろ田舎の人より「感じられる」かもしれないからです。わたし自身は、ちょっとつながっている程度かな?〉

魔法が魔法でなくなるときに、やっと自然と対峙できるのです。
ではいつ魔法が魔法でなくなるか?というと…
これは自然とともに営むこと、自然と契約することが重要かと思います。

どういうことかというと、アウトドアスポーツやたまにキャンプへ行ったり自然体験をするだけではなく、自然とギブ&テイクの関係性をどっぷりつくるということです。

具体的には
幼少期から自然にどっぷり触れる機会を作る。
自然を観察し、鑑賞する。
さらに自然をただ愛でるだけでなく、自然からなにか贈与を受けることをする。農業や、林業や狩猟など。
また、自然に対して贈与をする。(これは祭りにあたるかもしれない。)
そんな与えること・受け取ることを繰り返していると、自然と自分との関係性が深くなり、自然を見る「目」が養われます。

矢野さんは「大地の再生講座」というワークショップの開催を精力的に行っており、それに参加するのも向き合い方のひとつでしょうし、自分の庭や畑、山を持ってそれをしっかり観察する、というのもよいと思います。
どちらにせよ、「お客さん」の目線ではなく責任を持った立場で自然と接することが、魔法を魔法でなくする近道なのだと。

矢野さんの言葉を聞いたわたしも、この映画を観てただ「よかったね」で終わるのではなく、もっともっと自然の声がわかるように勉強を続けていかねばと改めて思いました。







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