柏崎さん

『“人生をかけて語ってくれている”と感じる取材は印象深い』東京新聞社会部記者 柏崎智子さん

大学卒業後の仕事始めは、名古屋へ転勤して働いた埼玉新聞。それから東京新聞に転職され、メディアの最前線で働かれ続けている柏崎智子さん。

記者を目指すようになったきっかけから、取材テーマを決めるまで幅広くお話を伺いました!

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柏崎智子記者(前列左から2番目)

柏崎智子さん:東京新聞(中日新聞東京本社)社会部デスク、「子どものあした」取材班キャップ。1971年生まれ。1993年埼玉新聞社入社、埼玉県政など担当。2003年、中日新聞へ転職、名古屋社会部に配属され、アテネオリンピックや障害者自立支援法の問題など取材。産休・育休を経て2008年から東京新聞さいたま支局熊谷通信局、2011年から社会部。厚労省や文部科学省を担当し、保育問題や女性差別、子どもの権利にかかわる課題などを中心に取材。「メディアで働く女性ネットワーク」(WiMN)会員。

『本好きで、何かを書く仕事をしたいという意識が芽生えた高校時代』

WI大山:ずっと記者一筋だと思うのですが、いつから記者を目指されていたのでしょうか?

柏崎さん:本が好きだったので、高校生の頃は出版社など何かを書く仕事をしたいという意識がありましたね。大学時代は、時事や社会言語学を学ぶ中で社会的な問題に関心を抱くようになり、新聞社がいいかなと。ただ、はっきり決めたのはかなり遅かったですね。

WI菊池:書く仕事をしたいと思い始めた高校生の頃に、経験して良かったと今思えることはありますか?

柏崎さん:高校時代は演劇部でした。演じるのが好きだったので、演劇は中学から大学までやっていました。高校の時は文化祭などで上演し、見てもらうのが嬉しかったのですが、友人からは「見ている方が恥ずかしい」と言われました(笑)

演劇にも地区から全国まで繋がる大会があります。私の代は県大会止まりで、2年生の秋に部活は引退になってしまいました。ちょうどそのタイミングで生徒会に誘われ、3年生の夏休み前まで行事の準備やらで楽しく過ごしました。

生徒会メンバーは今でもたまに会う、良い仲間です。勉強面でいうと理系科目がずっと苦手でした。大学受験も国立という選択肢はなく、私立文系へ。元々のんきな性格だったので、周りの友達に引っ張られて勉強することができた感じです。

『1人1人が自立しなくてはいけない社会の大変さや孤独を体感した留学』

WI吉岡:漠然と考えて進まれたんですね。そんな大学時代に夢中になっていたはありましたか?

柏崎さん:大学の教授の話がきっかけで、「国」とは何か、考えるようになりました。国境の意味とは何かとか。漠然と将来は国際的なことに携われたらなと思っていました。

WI座間:お話を伺いながら幅広い視点で物事を捉えている印象があるのですが、学生時代の経験で今の柏崎さんに影響を与えていると感じることはありますか?

柏崎さん:8ヶ月だけだったのですが、米カリフォルニア大学に留学しました。アメリカの自由な雰囲気を味わうと同時に、1人1人が自立しなくてはいけない社会の大変さや孤独も体感しました。何よりも1度日本から出て、客観的に日本を見ることができたのが良い経験だったと思います。

WI稲葉:俯瞰的に見るスキル、憧れます!長くメディアで働き続けられている中で、転職先に東京新聞を選ばれた理由を教えて下さい。

柏崎さん:就職活動中は、新聞社などマスコミを受けられるだけ受けました。大手は全て落ちてしまい、唯一採用してくれたのが地元の埼玉新聞。ここで記者としての考え方の基礎ができたと思います。10年仕事していた中で、次第に県外のことや国の政策決定過程なども直接取材したいと考えるようになりました。その際ちょうど東京新聞が中途募集しており、知り合いから「受けてみないか」と誘われ、転職しました。

『男性だけが社会を動かしてきた弊害を強く感じた経験』

WI竹内:記者という仕事を長く細く続けてこられた中で、印象に残った出来事や人はいらっしゃいますか?

柏崎さん:1番を決めることは難しいですが、相手が人生をかけて語ってくれていると感じさせられる取材は印象深いです。例えば命がけで反核運動した長崎の被爆者の男性は、取材時に、服を脱いでケロイドの跡を見せてくれました。傷跡が語る核の残酷さとは裏腹に語り口はとても穏やかで、逆に意志の強さや力を感じました。

WI鈴木:“女性”をテーマにいつも記事を書かれていますが、フォーカスすると決めたきっかけを知りたいです。

柏崎さん:駆け出しの頃、他社の男性の先輩記者(結婚している)に、「女性は結婚したらいい新聞記者にはなれない。結婚するな」と言われ、疑問を感じました。さらに保育について取材を始めたら、男性だけが社会を動かしてきた弊害を強く感じました。

「待機児童問題」なんて今始まったことじゃなく、昔からあるんです。それなのに、政策として本気で取り組まなかった。それは、政界に育児や子どもに理解のある女性政治家が少なかったことも大きな要因です。十分な予算が配分されなかった。男性だけで社会を考えるのは、もう限界です。それで「あらゆる分野に女性が必要だ」と考えるようになりました。

『「仕事を1年、2年休んでも大丈夫」と、もっと長い目で気楽に考えていい』

WI林:2人で生きるという子どもを産まない選択肢はありましたか?

柏崎さん:若い頃は、親など周囲から「子どもを産むのが当然」と期待されるのが嫌だったんです。一方で、女性も結婚、出産を経てもしっかりと働けるんだと証明したい気持ちもあった。だから、キャリアのために子どもを我慢するということは考えなかったですね。

実際に産んだのは、自然に子どもが欲しくなったから。若い人から「キャリアと出産のタイミングで悩む」と相談されることがありますが、出産は体の状態や年齢がどうしても関係するので、「何歳で産む」みたいに計画を立てても予定通りにいくとは限らない。

人生は長いので、「仕事を1年、2年休んでも大丈夫」と、もっと長い目で気楽に考えてもいいんじゃないかなと思います。ずっと走り続けるのも疲れちゃうよね。

WI大山:柏崎さんだからこそ「ずっと走り続けちゃうのも疲れちゃうよね」に説得感があって、この言葉の安心感がハンパないです(笑)肩に力を入れすぎず、今の自分の気持ちに素直に選択していくヒントを掴める気がします。ありがとうございました!

(文:吉岡華織、構成・編集:大山友理)



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