働くママの何が偉い
「コンビニ人間」 村田 沙耶香 文藝春秋
コンビニの為に産まれてきたコンビニ人間の話。
この本を読むと、「普通」って何なのだろう?と疑問になる。
普通はこうだよね、とか普通ならこうするよね、と日常に出てくる会話で、無意識のうちに人に「普通」を当てはめようとしている。
私の尊敬する先輩は「これが自分には普通だから」とよく言われる。
先輩は色々な挑戦をしていて、よく人から叩かれる。
人それぞれ「普通」は違うはずなのに、自分の「普通」に当て嵌まっていない人を見ると、攻撃する場合が多い。
それは、自分が劣っているんじゃないかと「不安」になったり、自分が否定されているのではと「不快」になる事に起因するのではないだろうか?
この物語の主人公の恵子は、所謂「普通」の女性ではない。
喧嘩を止めさせる為に、恵子は2人をスコップで頭を叩いたのだが、それが手早い方法だからであって、何故それが責められる事なのか分からない。
恵子の両親は、カウンセリングに通わせたりして、娘を「治そう」とするのだか、恵子は変わらず大人になる。
その中でも、「普通」に見えるように周りと合わせるように生きていて、初めて居場所を見つけたのが、コンビニだった。
恵子はコンビニの制服を着て、「コンビニ店員」となる事で、「普通」の人を求める世界でも生きていける。
この本を読んで、いかに世界(特に日本)が「普通」を強要しているかが分かる。
でも、普通の人生を歩むにもマニュアルが必要なのだという解釈もめちゃくちゃ面白いと思う。
この歳なら結婚して子どもがいて、コンビニでパートをしている、というマニュアルに沿ってさえいれば、「普通」と認識されるのだ。
「多様性」が叫ばれる昨今、結局は「その時代の普通」のマニュアルを逸脱してはいけないのだ。
私がよく違和感を覚えるのが、「結婚してお子さんもいて、仕事されていて大変ですね」とか、「子どもがいても、正社員で仕事をしているママは偉い」という風潮だ。
逆に言うと、「結婚した女は仕事を辞めがち」や「子どもが居る人は仕事していない」のが「普通」だと言っているようなものだ。
ママが働ける社会を、とよく聞くが、その場所や機会を与えられるのを待っている女性が多いのも問題ではないだろうか、とも思う。
もちろん、保育園の待機児童問題、会社の不当解雇などの問題はある。
ただ、私が今までお会いしてきた女性の中で不当な扱いに対して戦っている人はいないし、結婚後仕事を辞めて、「社会が出るのが怖い」とか「出来れば働きたくない」と言っている女性の方が圧倒的に多い。
学生の頃を思い出して欲しい。
男の子はみんな優秀で、仕事をバリバリしそうな子だっただろうか?
私の記憶では、女の子こそ真面目で賢い人が多かった。
何故、全ての男性はちゃんとした仕事に就かなくてはいけなくて、女性は結婚したら子育てを第一に優先して生きなくてはいけないのか。
そうしていない人を「異物」扱いせず、どんな生き方でも自分らしくある事を「普通」と捉えられる、そんな社会が多様性と呼べるのではないのかと思う。
もっと早く読んだら良かったな、という作品。
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