親ガチャについてと少し愚痴
「親ガチャ」などという言葉がある。子は親を選べず、どのような親を「引き当てる」のかは運次第、といったような意味の言葉だ。この言葉自体は昔からあった訳では無いものの、恐らくこのような考え方は昔からあっただろうし、若者言葉とか、最近の言葉、というよりは単純に最近具体的に名前がついただけであろう。
誰が考えたのか知らないが、この言葉を知った時はまあ上手く言ったもんだなと感じた。言葉の聞こえはあまり良くないかもしれないが、この考え方について否定的な人はそう多くないのではないだろうか。私は昔の学校教育のことは何も知らないなめ、あくまでも自分の経験を踏まえながら話すが、学校では生まれの格差について学ぶ機会は設けられていた。人権だとか平等だとかについての教育というのはやはり年々力を入れられているものなのだろう。私が学んだものの例を挙げると、「ある国には、学校にも満足に行けず、その日の食事を自分で働いて工面している子供がいる。同じように世に生を受けた子供のはずなのに、君たちと違うのは何故だろうか。」とかいう、お決まりのものなんかがパッと思い浮かぶ。とはいえ、精々学校で学ぶような生まれの格差というのは国程度の単位で分ける大きな格差のみである。
逆に、普段耳にしたり目にしたりする「親ガチャ」は、国内単位での話、各家庭ごとの差についてのものが多い。例えば「金持ちの家庭」や「ゲーム禁止の家庭」から、「片親の家庭」「家庭内暴力のある家庭」等々、当然数多ある家庭についての話なので様々なものが見受けられる。また、この単語は友人らとの会話の中でもしばしば登場する。受験シーズンの渦中にいる我々は「良い大学に進学できるか否かは親ガチャ次第だ」といった旨の話が話題に挙がることは少なくなく、皆の家庭はどうだとか、高校受験でもここまで来れてるじゃないかとか、本当の最上位は結局私立上層だけだとか、まあ割と様々な意見が出る。
時々「親ガチャという単語は己の努力の怠りを環境のせいにして正当化しようとしている奴が生み出したもので、どのような家庭にあろうと勉強する機会は平等にあり、結局はやるかやらないかしかない」とか言っている奴がいるのだが、本当にこういうことを言っている奴らの気が知れない。言い換えれば、私は親ガチャの及ぼす影響は非常に大きなものであると考えている。上記の理屈は、些細な言い訳をしている奴に対しては確かに通ることもある。が、全てをこれで片付けるのは余りにも横暴というか、言い過ぎなように思う。「自分は塾に行かずに有名大学に合格したのだから、塾に行けなくて勉強ができないというのは甘えだ。」みたいな、前例があれば誰でもそれを為せるみたいなスタンスの人間が世の中に多すぎる。成功の全てを才能のおかげとされてしまっては「努力した自分の気も知らないで好き勝手言いやがって」と言い返したくなる気持ちは痛い程よく分かるが、だからといって自分の才能を感じなかった訳ではあるまい。努力さえすればすごい大学に行ける訳ではなく、才能さえあれば行ける訳ではない。努力と才能、その両方が必要とされる。ごくごくごく稀に才能だけで行ける奴もいるかもしれないが、まあそんなものは本当に一部であり、99.999%はしっかり努力した者である。また、受験である以上は当然運も必要とされる。勝負強さというか、「ここぞというところでちゃんと決めきれる奴」がそういう場所へ行くのだ。事実、E判定でも受かったとか、A判定なのに落ちたとかはよく聞く話である。
話を戻すが、ここまで努力のことをただ「努力」と呼んできたが、ひとえに努力と言ったって、それも様々である。具体的な例を出すと、「毎日10時間勉強してたのに落ちた」という人と、「毎日7時間の勉強でも合格出来た」という人がいたとしよう。この時、努力の「量」で言えば前者の方が多いのかもしれないが、努力の本質は「内容」にあるので、後者の方が考えて勉強していたのだと考えられる(問題の噛み合いが悪かったとか、運要素はここでは無視する)。自分の出来ること、出来ないことをきちんと分析し、今の自分に必要なものは何かを考えながら勉強するのと、何も考えずにただ言われたことをこなしたり、同じような問題にばかり取り組むのとでは全然成長率が違う。超極端な話をすれば、英単語だけ勉強しても英語ができるようにはならない、ということだ。
しかし、このような「考えて努力する」ということは、非常に難しい。自分のことを一番理解しているのは自分であるが、受験生というのは「受験」に関しては初心者なのだ(現役生であれば)。そこで必要とされるのが「受験」のプロ、要するに塾である。毎年数多の受験生を合格に導いている、まさしく「受験」のプロである塾に教わることで、受験生も勉強のノウハウを体得していき、受験に臨む。しかし、要領の良い奴というか、飲み込みの早い奴というか…塾に行かずして上手く自分で勉強出来る奴も世には存在するが、こちらの方がまあ少数派であろう。
少し長めに努力だの受験だのについて語ったが、詰まるところとしては塾の存在は受験生にとってかなり重要なファクターであるということが分かってもらえれば良い。ということはつまり、「塾に通える環境」と「塾に通うことができない環境」の間に格差が生まれる。ここが親ガチャによって決まる部分である。「塾に通うことができない環境」というのは、親が塾に金を払えない、或いは払いたがらないような家庭のことを指す。たとえ子供に勉強意欲があったとしても、思うように勉強が出来ず、結果として不合格になってしまうとか、妥協して志望校を落とすとか、まずそもそも受験などさせてもらえず就職しか道がないという家庭だって存在する。今は大学受験の話をしたが、世間でよく親ガチャと紐付けで挙げられる話題は中学受験の方が多いだろうか。親が中学受験について知らなければまず選択肢として現れず、選択肢にあったとしてもそれを選ぶにはそれなりの裕福さが必要という、選ばれた者しか辿ることの出来ない道であるからだ。その上、中学受験で上振れることが出来れば早慶までエスカレーターとか、そりゃ出来るならやり得だろうが、それを全ての家庭でできるかと言われれば当然そんなことはないから話題に挙がる訳だ。こういった事例もあるのに、それでも土俵は同じだと、ただの努力不足だと言い張る輩がいるのだから全く呆れたものである。
誰しもが、生きている中で色々な事に理不尽を感じてきただろう。勲章持ちの上級国民なら人を轢き殺しても車のせいにできるし、国会議員は税金を裏金にしてパーティーをしているし、自分のやってる事、ひいては存在すらバカらしくなる時だってあるかもしれない。しかし、そういうものである。世の中は案外終わっているものだ。トー横関連の話を目にする度に同じ日本人の10代にあんな奴らがいることに絶望するし、トー横に留まらず天王寺や難波にもゴミみたいな奴はそこかしこにのさばっているし、ODしてみたり立ちんぼしてみたりと救いようのない方向に走り出すバカも実際少なくないし、社会を見てみれば年功序列なんていうカスみたいなシステムも根強く残っているし…言い出せばキリがない。つい世の中への不満が溢れてしまった。しかし、自分が下であるならば、それも全て受け入れざるを得ないのだ。支配したければ上に立つしかないのである。そうでない以上は、世の中なんて理不尽に満ち満ちているものだ。その頂点にあるのが親ガチャであると私は考える。結局、生まれは全てを左右するのだ。磨けば光る原石も、発掘されなければ腐ったままだ。それが発掘されるか否かを決めるのは環境でしかなく、そこに当人の意思は欠片も関係ないのである。くだらん世の中を、皆必死に生きているのだ。それでも、この文を読んでいる日本人、或いは日本語を会得した外国人のように、教養を得る機会がある人間というのは、それだけでも相当恵まれているのだ。どうか辛い時は下を見て欲しい。家があるだけで、飯を食えているだけで、仕事があるだけで、学校に行けるだけで、十分すぎるほどに我々は恵まれているということを、努努忘れないで生きよう。以上!
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