遠く、遠く

 季節は過ぎ去った。
 赤や黄色にとりどり染まった街路樹の葉はすべて散り、その腐葉土の匂いすら、降り続く雪に圧し殺される。穏やかに、いつもと変わらないような顔をして流れて行く日々、世界にとって私ひとりの人生など他人事。
 街にはもはや、誰一人として人影はなく、話し声も、冬への反抗、雪かきの跡も、足跡ひとつも、みられない。

遠く、遠く

 すべての始まりはあの秋だったように思う。
 見も知らぬたくさんの人間が失踪し、死んだはずの人間が生き返り、そしてそれに気づかぬ人々で溢れかえった異様な光景。あの時帰ってきた妹との日々。
 違和感。けれどそれだけだったのだ。
 友人の忠告もあった。ほんとうは、こんなはずではないのだと、これは妹などではないのだと、恐れや嫌悪を抱くべきなのだと、頭の片隅の理性が警告を発していた。
 それでも、守れなかった過去、失うことの辛さを知った私には彼女の存在は救いとなっていた部分がもちろんあったし、それを除いても、そう、死の真際の彼女の記憶が鮮烈であった私には、それ以前と同じに振る舞う彼女の本来の気質を思い出すことができるというだけでも、救われていた。
 結局彼女は私にとっては都合のいいまやかしか何かだったけれど、あの頃の失踪と、それで減った人口を調整するように「帰ってきた」人々の件が長らく明るみにでなかったことには、このあたりが関係していたのだろう、と、今になって思う。
 救われていたからこそ、誰もそれを手放そうとしなかったのだ。
 ひとが死ぬということは、それだけで残されたものに多大な影響を与える。どんな人間でも、完璧に誰とも接点なく生きていなどいられない。そんな社会であるからこそ、だ。
 「最近会っていないけれど、あの人は今頃どうしているんだろうね。」
「娘が一人暮らしをはじめたのだけど、仕送りとかは必要なのかしら。何も言ってこないで、一応きちんと生活はできているようだけど、心配で。」
「そういえば、この間職場で、あの人最近みませんね、って言ったんだけど。退職してたんだそうだ。新しい職でも見つけたんだろうか。」
「いつも通販してるあの人、珍しく通販じゃない荷物があってさ。配達指定時間を昼過ぎにされてたんだけど、その時間絶対家にいないんだよね。」

 その縁の多少に問わず、ひとは誰かの記憶に残る。
 どれだけ短い関わりであっても。どれだけ昔の関わりであっても。人間はみんな誰かの「子供」から始まり、その後「大人」として社会から隔絶された生活を送ろうとしても、それは容易なことではない。
 少し考えてみれば分かることだ。

 だからこそ、仮初だと分かっていても、無くしたもの、過去の記憶、なつかしさ、感情の大小や種類を問わず、あの事件は容認されてしまったのだ。

 発覚が遅れ、そして誰一人として「生き返った人々」を告発しなかったせいで、あの件は最終的に、中世の魔女裁判の様相を呈した。現代であるから問答無用の裁判や処刑こそ行われなかったものの、彼らの恩恵を受けていない誰もが彼らをファンタジーの中のアンデッドか何かのようなものだと勘違いし、それを正す報道もなく、疑心暗鬼が加速した。
 その中には、私の妹もいた。
 彼女は死んだ記憶もなければ生き返った記憶ももちろんない。それだからこそ、戸惑っていた。

 「生き返った人間、って、つまりどういうことなんだろうね。だってこの国じゃ火葬じゃない。ゾンビ大国とはわけがちがうし、ねえ。」

 私が例のカウンターの表示されたページを開きっぱなしにしてしまっていた日、ノートパソコンの画面を見ながら、彼女は不安げに眉をひそめてそう言った。
 「大丈夫だよ。何も分からないものはいつだって怖いものだ。……例えばだけど、職場の同僚がその生き返りかもしれない。でも何もしてこないとする。今はそういう状況なんだと思う。」
 だって、誰もゾンビに殺された、なんて、ニュースじゃやってないだろう。そう言って諭すと、彼女はまだ不安げな顔で、けれど頷いた。
 そう、結局最後まで、あの事件は事件と呼ぶには穏やかすぎたのだ。世界の作為を疑おうにも、あまりにもなんの意味もないものだった。
 ただ、ほんの数か月の間だけ、生きていた人間と死んでいた人間が入れ替わっていた。それだけだった。
 生き返った彼らがトラブルを起こしたことが、無かったわけじゃない。けれどそれは些細なもので、例えば別れる別れないの痴情のもつれから口論に発展し、警察が呼ばれ、その場で住民票との照合を経て片割れが「生き返り」であることが発覚しただとか、そんな程度のものだった。人間が生きていれば、きっと毎日どこかしらで起きていること。
 異様な事態ではあったけれど、ほんとうにそれだけだったのだ。

 そう考えると、今の状況も同じだ。
 異様だけれど、それだけ。
 実害となるような事件は何一つ起こっていない。
 「いつも通りです」という顔をした見知らぬ他人が、いつも私の傍にいる。

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