-遠く、遠く

 ぼんやりとした白ばかりの視界。
 私の前に道はない。私の後ろに道はできる。
 いつだか何かの本で読んだ文言がそのまま、今の光景に当てはまる。目の前にはただ真っ白く、どこに側溝があるかも分からない雪ばかりが広がっていた。
 私の散歩の目当ては、コンビニエンスストアへ行くことだった。

 今はもう、あの頃の異様とは比べ物にならないほどの異様が、街を覆っている。雪のように。それは当たり前の顔をして、静かに忍び寄り、そして街を、生活を侵食した。 
 なんとか側溝に落ちることも、雪に足をとられることもなくたどり着いたコンビニ。数日前から、そこには誰の姿もない。
 レジ横のホットドリンクのケースからブラックコーヒーを手に取りレジへ向かうと、そこには昨日私が置いていったばかりの百二十円があった。今日も、私はそこへ百二十円を置いていく。
 客どころか店員すらなく、そして欠品が出ようとも補充するトラックすらないコンビニ。買い物客も、どうやら私の知らないところにすらいないらしい。ただ電源と、お手洗いのために上下水道が生きているだけの無機質な箱。人の営みをなくした街に店があったところで、それはただの大きなショウケースだ。
 一日一本減っていく、ブラックの缶コーヒー。
 一日三枚増えていく、レジ上の硬貨。

 妹が消えた日の喪失感が、記憶によみがえる。
 この光景は、あの日こころが機能を停止した感覚を呼び起こす。

 妹の消えたのは、秋めく腐葉土の匂いが街に立ち込めたころだった。何か問題が起こったわけではない。少なくとも、私たちの関係は極めて良好だったはずだ。
 料理は交互に作ることにした。毎食ごとではなく、日ごとに。彼女の料理は相変わらずの母親仕込みで美味しかったし、私の料理も次第に彼女の口にあうように調整されていった。それは彼女が強引だったからなどではなく、私が彼女に「おいしい」と言ってもらいたかったからだ。
 私に協力してくれていた元同僚の彼。彼には妹のことを報告しろと言われ、交換に探し人の情報を得てもいたのだが、彼に報告していたことといえば彼女が「いつもと変わらない」ことや、「生前との変化も特に見られない」ことくらい。彼女はいなくなる直前までほんとうに、あの時見た亡骸よりも時を経て、生きていればこのくらいだ、という容姿をしているほかは何も変わらなかった。ほんとうに生きていた。彼女の身体はあたたかかったし、食事を美味しそうに頬張るのも、寝ぼけ眼でそれでも何か本を読もうととか、起きようと努力していたのも、ちいさな個人の、ささやかな幸せを味わっているようにみえるだけだった。
 妹は彼と私の関係性を「元同僚」で「現友人」だと思っていたはずだし、何も指摘をしなかったということは、恐らくは彼女は気づいていたとしても見過ごしてくれていた。その程度には、信頼関係もあった。
 だから、私のせいで彼女が消えたのではない。

 私が彼に提供していた情報がこんな些細なものばかりだったように、彼が私にくれた情報も、些細なものばかりだった。けれどそれは彼に悪意があってのことではなく、単純に、それこそ「何の痕跡もなく消えた」ということくらいしか分からなかったからだろう。定期的に行っていた喫茶店での報告会は雑談に浪費された。
 私も、彼も、そのことに苛立ちはしなかった。きっと「そういうものだ」と分かっていたからだ。諦めていたからかもしれない。何もわからないと分かっていてなお、それでもしなければならない。彼は正義感から、私は、喪失感からだろうか。
 その報告会が何度にもわたり、そして「そろそろおしまいにしないか」と彼が言い出した頃が、二度目の大きな変化の時だった。
 一度目は失踪と生き返りの発生。巧妙に足音を消して忍び寄っていたこれとは違い、この二度目の変化はもっと単純で、冴えたやり方だった。
 その結果が、今だ。
 きっと誰にも分かることだろう。
 生き返りも、生き続けていた者もみな区別なく、人が消えたのだ。
 これがしばらく露見しなかったのは、ひとえに支配階級から消えていったのが原因なのではないかと思う。現在の社会体系は、「上」がいることを前提につくられているところがある。つまり、「上」をなくしてしまった、どうすればいいか。そんな対応すら、仰ぐ「上」なしで動ける人間はそうそういない。
 それが発覚したのは、民間レベルにまで消失が及んでからのことだった。きっとそれも、「上」から順番に消えていって、さほど時間も経たなかったからだろう。
 最初の消失がいつ起こったのかは、分からない。けれどあまりにも、誰も、気付かないうちのできごとだったから。今回の異様はとても手際が良かったのだ。

 これを失踪ではなく消失と私が呼んでいるのは、私がその現場を目撃したからでもある。

 妹が消えた時。
 それは一瞬か、それにも至らない間だったのだ。
 その時妹と私は、コンビニまでの道を歩いていた。そう、先ほどまでの私のように。向かっていたコンビニもあの場所だ。
 その道は都市部にしては比較的開けていて、そして脇道もない、大きな道だ。

 「お兄ちゃん何買うの。」
 「カフェオレ。」
 「糖尿病になるよ。」

 そんな会話をしていたことを、今でも覚えている。

 「ならないよ、なるにしてもまだ先の話だ。」
 それに、お前だって最近ケーキを食べすぎだから、糖尿病、なるんじゃないか。そんなことを言おうと思って彼女を見た時には、そこに、横で揺れていたはずの薄い茶髪はなかった。彼女の履いていたムートンブーツの足跡は、私の二、三歩後ろで途切れていた。
 その後どこかへ向かった足跡はない。
 今のように雪が積もっていたとか、そういう分かりやすい状況ではなかったが、落ち葉を踏みしめた跡は残る。それが、無かったのだ。
 パニックになることはなかった。何があったんだ、と、呆然としながら私は、「またひとりになった」と、自分のことばかりを考えていた。

 結局取り残されるのだ、というその時の虚無感、喪失感は、今でも脳裏に、サブリミナル的にちらつく。

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