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もし伝わらないなら それはエゴだからかも

もし「経営理念が浸透していないなあ〜」「なかなか思いが伝わらないなあ〜」と思ったら、その経営理念、その思いはあなたの(私の)エゴだからかもしれません。以下の竹内敏晴著「言葉が劈かれるとき」(思想の世界社刊・1975)に記述されている文章を読んでみて下さい。

「ことばは、本源的に、まず話しことばです。これが私の基本の考えです。日本の教育では文を綴ることばかり重視されているようだけれども、文字による文章表現は、良くいえば高次の、悪くいえば枝葉のことだと言えます。話しことばができないということは、書きことばと違って、人間のコミュニケーションにとって本質的な障害であり、人間として大きな欠陥がある、ということです。この回復、というより劈開あるいは創出は根源的なことだし、障害児だけでなく、普通に社会生活を行っている人々の中にも、もっと軽度ではあるが、この障害に悩んでいる人々はかなり多い。」

私たちは普段、人に何かを伝えるときに「ことば」を使います。その「ことば」は本源的には「話しことば」であると、竹内敏晴さんの基本的な考えを述べておられます。これを読まれると「コミュニケーションは言葉だけではないですよ。」と言う人もおられると思います。

上記の引用は、著書「ことばが劈かれるとき」(ことばがひらかれるとき)の「はじめに」からの抜粋なのですが、

○凍っていたノド つるまきさちこさんの報告
○からだとことば 竹内敏晴の手紙
○ことばが劈かれるために

の中の「竹内敏晴の手紙」の一部分です。また章立ては、

○ことばとの出会い
○からだとの出会い
○治療としてのレッスン
○からだそだて

という感じで、冒頭の「はじめに」で、当時心身障害児の療育施設にいた、ちょっと見たところ三年生くらいにしか見えない、声は出るけれども、言葉にならない「知能指数不明」とされ、発育遅れの子として入学した小学校6年生のチヨコちゃんがことばが話せるようになるエピソードなのです。

さらに竹内敏晴先生は「障害児だけでなく、普通に社会生活を行っている人々の中にも、もっと軽度ではあるが、この障害に悩んでいる人々はかなり多い。」と、(私も含めて)だれしもが「人間のコミュニケーションにとって本質的な障害を持っている」「人間として大きな欠陥を持っているが、気づいていないであろうと警鐘をならしておられます。

このチヨコちゃん。やがては「ことばが劈かれて」いくのですが、それにはどうすればよいのかを以下の様に書かれています。

「第一に、話しことばは、こえの一部にすぎない、ということを言いたい。人間の発する音にはたくさんの種類があり、こえもその一部のわけですが、それにも、ためいき、うめき、叫び、うなりなどがあり、ことばはそれらの一部であるとともに、整序されたものに違いない。だから、話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。」

竹内敏晴先生は「(話し)ことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。」と書いておられます。私たちの場合は「声を発する衝動」とは「経営理念」とか「伝えたいこと」になると思います。それが「からだの中に動かなければ(伝わることばが)生まれない」ととれます。更に、

「コミュニケーションの面から見れば、話しことばは、まずなによりも他者への働きかけです。相手に届かせ、相手を変えること。変えるといっても、行動を変えさせる、持っているイメージを変えさせるなどいろいろですが、とにかく変えることで、たんなる感情や意見の表出ではない。ですから、話しことばがもっともよく発せられる場合といえば、自動車が来るのに気づかないで歩いている人に「アブナイ!」とどなるときなどはその典型で、こんなときは、からだ全体が単一の目標に向かって躍り上がり、知らないうちに大声がでている、というわけです。」

と続きます。ここで「相手を変える、持っているイメージを変えさせるという表現に危険な感じを受ける方もおられると思いますが(私も感じました)、このまま最後まで読んでみて下さい。

ことばというものは「なによりも他者への働きかけ」で「相手に届かせ」「行動を変えさせる」「持っているイメージを変えさせる」と書いてあります。経営理念や伝えたい思いがこのようになればよいのですが、なかなか難しいのではないでしょうか。

『(ことばは)たんなる感情や意見の表出ではない!

コミュニケーションの面から見れば「たんなる感情」や「意見の表出」ではない!と書かれています。私は「えっ!?」って感じがしました。「経営理念」や「伝えたい思い」が、たんなる感情や意見の表出ではダメだと。

このことを理解する例として自動車が来るのに気づかないで歩いている人に「アブナイ!」と、どなるときを紹介されています。

私が若い頃、フェリシモの矢崎勝彦会長(当時)に「公共って何か解りますか?」と問われ「???」となっていたときに、「駅で電車を待っているときに前の方が小銭をばらまいた。さて貴方はどうするか。」と訊かれ、「思わず拾うと思います。」と答えると「それが内発的公共性だ。」と教わりました。

『声を発する衝動が体の中に動かなければ生まれない

体の中に自然にはたらく衝動。マコトのハタラキが声となり、他者への働きかけとなり、相手に届かせ、相手を変え、行動を変えさせる。

○自動車が来るのに気づかないで歩いている人に「アブナイ!」とどなる
○おもわず小銭を拾う行為行動に変わる

『たんなる感情や意見の表出ではない!』ということが理解できます。

これらは「私的」な思いからの衝動ではなく、「公共」的な衝動からの内なる声であったり行為行動であったりします。誠のハタラキです。

もし「経営理念が浸透していないなあ〜」「なかなか思いが伝わらないなあ〜」と思ったら、その経営理念、その思いは「公共」的な衝動からの内なる声であったり行為行動ではないのかもしれません。今一度私的なもの、エゴになっていないかチェックしてみましょう。

「知能指数不明」とされたチヨコちゃんは「こえを発する衝動がからだの中に動く」ことで言葉を得て、はなしことばが出来るようになりました。

著書では一方、知能の高い生徒T夫君が同じようには「はなしことば」が出来ない事に触れられています。「客観的な世界に属し、知能が高いというのは、現在の社会および教育では、たいていこの判断力の多寡を言うようです。しかし、主体としてのからだが動き、(チヨコちゃんのように)こえが発せられるのは別の次元に属します。」とT夫君を見立て、対しチヨコちゃんのことを「主体はただ対象に向かって動くだけ。客観的判断など立ち入る余地もなく、対象が主体を惹きつけるとき、チヨコちゃんのこえは出、そうでなければこえは出ない。チヨコちゃんのからだは、実に正直なのです。」と書かれています。最後に、

「われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、と努力する、それがこえであり、ことばであり、表現であると言いたいのです。そして、それを他者が見、それが他者にうつってゆくとき、例えば連帯とか共闘というようなことも、そのいとぐちが劈いていきうるのではないでしょうか。」

と書かれ、私たちが「経営理念」を浸透させたり、「思い」を伝えるときの大切な何かを見出すことが出来るのではないかと思います。

理念や思いを伝えきれない私は、自分にとっての「善」や自分にとっての「正義」では伝わらないよ、と言われているように感じます。

このように、声や言葉が「スラスラ」と出せる私たちでは気づかないことも、声や言葉が出せない状況を考えると、多少何が起こっているのかが理解できます。障害も健常も不二法門。合一ですから。片方だけ見ていては気づかない、気づけないこともあります。

では、具体的にどうすればよいのか。一つに日々当たり前に生きている私たちが「生と死」を考えることで見出す事もできます。

人間は「人に聞いてもらうことで、見えない自分の心を、冷静に見られる」のだと思います。人の話を聞いてあげて、そして、自分の話も聞いてもらって、お互いに助け合って生きていくのが、正しい人間の道であるとつくづく感じました。「日曜法話」東寺教学部長山田忍良2019年12月22日より転載

今この瞬間に他者を思いやり、お互いに「言って言われて」ではなく「聞いて聞かれて」見えない自分の心を冷静に見ることができれば、それが私的な理念・思いなのか、公共的な理念・思いなのかが共にわかり合え、あいだが溶解し、新しい何かが産まれると思います。そうすれば上意下達することもなく、お互いに私的なものから公共化され、自然に浸透し、自然に伝わるのではないでしょうか。

皆さんの経営理念が公共化され自然と浸透しますように、
今この瞬間に他者をおもいやる思いが自然と伝わりますように。

この本から引用させて頂きました。

#命とはつながりである
#みんなでおこなう会話を通した平和な活動


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