資料室#7: 「八甲田山雪中行軍遭難事故」

今回は「八甲田山雪中行軍遭難事故」について見て行きましょう。

「八甲田山雪中行軍遭難事故」: 1902年(明治35年)1月23日、日本陸軍第8師団第5連隊第2大隊が、青森市から八甲田山の田代温泉に向かう途中で遭難し、210名中199名が死亡した大惨事です。

この事故は、当時ロシアとの戦争が近いと予想されていたことから、日本陸軍が実施していた冬季訓練の一環として行われました。第5連隊は、青森市から八甲田山を越えて、田代温泉から弘前に至る約20kmの行程を、1日で踏破するという計画でした。

しかし、行軍当日、青森市に吹いていた雪風は、午後になるとさらに強まり、八甲田山では猛吹雪となりました。行軍隊は、視界が悪く、方向を見失って、雪中をさまようこととなりました。

翌24日、行軍隊は、田代温泉から約1.5kmの地点まで到達しますが、ここで、行軍隊長の山口鋠少佐が、残り1.5kmは容易に踏破できると判断し、帰営を決定しました。しかし、この判断は、致命的な誤りでした。

帰営を開始した行軍隊は、吹雪に巻き込まれ、方向感覚を失って、さまようこととなりました。多くの兵士が、凍死や衰弱死しました。

27日、救助隊が到着し、生存者を発見しますが、すでに多くの兵士が亡くなっていました。

この事故は、日本陸軍の冬季訓練の不備や、指揮官の判断の誤りなどが原因とされています。この事故を受け、日本陸軍は、冬季訓練の体制を整え、装備の改善に努めました。

八甲田山雪中行軍遭難事故は、日本陸軍の悲劇として、語り継がれています。

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