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私たちは作っているのか,作らされているのか。

みなさんこんにちは!ちょっとお久しぶりですね。
オリンピックの様々な報道が飛び交う日々ですが,いかがお過ごしでしょうか。

今回は大きなテーマですが,創作について書こうと思います。

みなさんは中動態という言葉をご存知でしょうか。
中動態とは,「する/される」といった能動態や受動態に属さない,能動的と受動的の外側のようなものです。
(こちらの記事では「謝ること」を例に説明されています。)


創作活動で言うと,作りながら何かに作らされている。描きながら何かに描かされている。このような状態が重要だと私たちデザイン科の教授,松下先生が本プロジェクトのこれまでのプロセスを通して再認識されたそうです。
以下,松下さんが私たち学生に向けたメッセージの抜粋です。

 個人的な思い込みだけで好きな絵を描いてもこの仕事は続けられない事は経験的に僕は知っていて、自分が描いているのではなく、何かに「描かされている」というある種の没我精神に基づかなければちゃんとした評価がされない事も知っています。それが中動態という意味で、さらにそれがとても学生に伝わりにくい事も重々知っています。

このプロジェクトが終わり、皆が自分の制作に戻ってゆく時、今回このプロジェクトで得た小さな「つっかえ棒」がこれまでに無かった皆の作品の強度に繋がると思います。

デザインはそもそも何かの目的のための手段や道具として存在します。
そのデザインという道具を巧みに駆使し,設定した目的を達成できるのが優れたデザイナーでしょう。
つまり出来上がったデザインはある目的のための形態や視覚表現であるため,自分個人の趣味嗜好が入る余地がないことがあります。デザインにおける中動態とは,「この場合はこの表現が適切だ,これしかないよね。」というような自分の趣味嗜好を超えたところの判断基準や感覚のことを言うのかなと思いました。(松下先生,間違っていたらすみません💧)

今回のプロジェクトを通して,独創性や個人主義的な表現などを自分から引き出す以上に,自分から離れたところからコンセプトや表現の根拠を持ってきて説得力あるものにしたり,自分以外の視点を借りるなど普段行わない様々なアプローチを実践してデザインに向き合っています。


芸人で作家の又吉さんも創作の際に “何かに「描かされている」というある種の没我精神” になることを述べていました。
「出来上がった小説やネタを書いてるのは僕じゃない。」
彼のこの言葉を以前聞いた時はよく分からなかったけど,今はほんの少しだけ分かるようなそんな気がしました。


この記事を読まれる方にはデザインに興味がない方もある方も,またデザインを仕事にされている方もいるかもしれません。
この感覚についてみなさんはどのようにお考えをお持ちでしょうか?みなさんのご意見もぜひお聞きしたいです!
(インスタのDMやこちらのメールでもどちらでも結構ですのでお送りください〜😃)


オリンピックの開会式やデザインを見ていると,これからの未来のデザインを作るのは私たちなんだ,と妙に心がざわつきます。
同時に,様々な文脈を含んだこのプロジェクトがこの回の展覧会で終わるものでなく,今後の自分たちの活動や創作,デザイン,それらへの姿勢など大きく影響することを個人的に感じるのでした。

note担当 佐藤

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