2023年11月の聖書タイム「主は賛美の中に住われる」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに」ーーー歴代誌下20:21 

11月ともなれば雨も多く、めっぽう冷え込む今日この頃、この時期の散歩の楽しみは、不思議な形をしたキノコを森のあちこちで発見することです。どれも毒のような気がして採集こそしませんが、例え同種だとしても、一つとして同じ形をしていないのが実に面白いです。昨日あった場所に今日行ってみると、もう姿を消し、かと思えば別の場所に見慣れないのがニョキニョキ出ていたりまさに神出鬼没、キノコ自体が小さな驚きそのもののよう。神様の創意の魅力、神秘を物語るキノコ、束の間の存在だからこそ宝のように光を放ちます。

思えば人間である私たちの姿も、この小さなキノコのようかもしれません。私たちの教会「ウィンブルドン賛美の群れ」も然りです。メンバーはそれぞれ地元英国の教会で多国籍の人たちと一緒に毎日曜日、礼拝を守るのと並行し、たまには日本語という母国語で礼拝したい思いで集まるので、正式な礼拝形式をとるのは月に一回だけです。けれども母国語で「主を賛美する」楽しさはひとしお、その喜びを分かち合っています。

「賛美の群れ」という名前からもわかるように「賛美」は私たちにとって大変重要です。一般にVI Pを迎える時レッドカーペットを敷きますが、礼拝時の賛美もまた、主に向かって敷かれるレッドカーペットと言えます。もっとも普通のカーペットは出口に向かって垂れるように敷かれますが、賛美レッドカーペットは重力の法則に反し、私たちの心から天に向かって伸びるように敷かれます。会衆が一つとなり、賛美カーペットを天に掲げると、神様の御座と会衆はしっかり繋がります。「主は賛美の中に住われる」からです。

今月のタイトル「主は賛美の中に住われる」を、少し説明させてください。

詩篇22:3(新共同訳では:4)だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方」という箇所をみましょう。
英語の聖書では、But You are “holy” Enthroned in the praises of Israel. 。自分の邦訳だと「だが、あなたは聖なる方。イスラエルの賛美の王座に座る方。」です。

ヘブライ語で「座る」 yoshevには 「住む、定着する」という意味があります。「イスラエル」とは国家というより、信仰を持って神様を呼ばわる者、つまり「わたしたち」のこと。ですから詩篇22:3には「だが、あなたは聖なる方。私たちの賛美の中に住われる、賛美の中に永住される方」という深い意味が込められています。

先に述べた「賛美のレッドカーペット」は、キリストが私たちの罪の贖いのために流された血潮です。日本では愛し合う者同士を「赤い糸で繋がれている」と形容しますが、神様と私たちは、キリストの血潮レッドカーペットで繋がれる相思相愛の仲、切っても切れない間柄です。賛美する時、赤い道は浮き彫りになりますが、神様の臨在は教会で賛美する時だけに現れるとは限りません。キリストの十字架血潮レッドカーペットのおかげで、神様は私たちが賛美しようがしまいが常に臨在され一人一人の只中に共にいてくださいます。


あなたは、その主を感じて暮らしていますか?主がどこにおられるかを知っておくと主の存在を感じやすくなります。もちろん天の御座におられます。けれども、天だけではありません。コリントの信徒への手紙1の3:16にはこう書いてあります。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と。
そうです、主はあなたのごく近くにおられます。近いも近い、主の霊はあなたの体内に宿っています。あまりにも近すぎて、見過ごしていませんか?自分の体内に主の霊が宿っているのを知ったら、きっと私たちは体も心も、もっと大切にするでしょう。賛美をする際、天の御座の主と自分の中の神の霊とがキリストの取り持つ血潮カーペットを通し一つになるので、その道筋が生き生きと浮き彫りになるのです。
ヨハネの黙示録3:20を読みましょう。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。


食事を共にすることはユダヤの風習では「和解」を意味します。日本でも然り、労働組合と会社の代表たちが食事を囲んで交渉することがあります。聖書では戸を叩くキリストを迎え入れ、共に食卓を囲むことは、天と地の歩みより、和解を意味します。それは創り主と私たちの和解。けれども主は食事を食べ終えた後「ごちそうさま」と言って帰るでしょうか?いえいえ、それどころか、そのまま共にいて(yoshev)次の食事もご一緒してくださいます。「そんな、毎食なんてたまらない、居候が増えたも同然、負担です」と危惧する方もいるのでは?ご心配なく。詩篇23:5に「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる」とあるように、主は食卓を用意なさる方、あなたは食べる人です。美味なものを食べさせていただくのです。賛美もまた、主と共にいただく霊なる糧・食事です。

黙示録3章のこの箇所は「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」と続きます。
この「神の勝利」をその都度コンファームし勝鬨をあげるのも賛美です。旧約聖書歴代誌下20章にはユダの王ヨシャファトにモアブ人とアンモン人の大軍が戦いを挑んだ話が書かれています。ここを読むと、賛美にこそ主の力が輝くことがわかるはず。言い換えれば賛美はクリスチャンの武器だということがお分かりになるでしょう。
ヨシャファトのお話をかいつまんで語ると次の通りです。主は預言者を通して王に語られました。:15では『この大群を前にしても恐るな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである』。:17では『そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな、おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』とあります。病、仕事、戦争など、あなたを悩ますこの世の様々な戦いは「神の戦い」だから自力で戦う必要はない・・・ということ。私たちは闇雲に直接、敵に向かって突進しようとしていませんか。

聖書が開示する「勝利のノウハウ」は驚くほどシンプル。いや、まるでキツネにつままれたようなやり方です。とどのつまりは「賛美すればよい」のです。弱い私たちに出来ることは神に信頼し、神を賛美し、神の勝利の証人となることです。自力で頑張って戦いたい人にとっては「それでは困った時の神頼み同然!なーんて手持ち無沙汰なことか」と言うかもしれません。

 一般にシンプルに見える名人芸が実は難しいのと同じように、一見シンプルな「神の勝利ノウハウ」は意外と難しいのです。はじめに「賛美」という名の平和武器の扱い方を学ぶ必要があります。まず、ヨシャファトの戦いの方向性は敵を自分の手でどうやっつけるかではなく、神に視線を向けることに終始しています。つまり彼は神だけを見上げ、敵も被害者である自分にも、ほぼ目をくれません。要するに彼は神のお告げに従順でした。この「従順」が苦手な人はかなり多いはずです。自分で戦おうとする場合、世の常識では即、作戦会議に入りますが、ヨシャファトは側近たちと共に主を「礼拝」しました。

:19ではレビ人の子孫たちが「立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した」とあります。これは肝心なポイントです。言葉を駆使し口に出して大声で主を賛美する・・・これは勝利の先取り宣言、平和宣言です。賛美は平和という神の陣地を拡大する唯一の手段です。武器に対し武器で報いない。武器VS(神の言葉=「平和的武器」)という図式です。神の戦闘準備は非常に「平和的」で、戦場で暴力に訴えることをしません。これは並大抵ではないはずです。

ヨシャファト王はいよいよ出陣の時が来ると、民と相談して今度は、今で言う教会の「賛美チーム」を選抜結成し彼らに軍の先頭を歩かせました。平和の使者のような無防備な先発隊である賛美チームは主に向かって歌を歌いました。なんと型破り、出鼻を挫くような動きでしょうか。あまりにも無防備で危険としか言いようがありません。敵側は当然、呆れ果てたことでしょう。

先頭の賛美チームは『主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。』と神の言葉をもって賛美し続けました。結果はヨシャファトの大勝利。まさに賛美の力、賛美の中に住われる神の正義が堂々と通っただけで、敵は敗退しました。具体的な戦の次第を詳しく知りたい方は20章を全部読んでください。

あなたが苦しい時、敗北したと思う時、不当な扱いを受けたと思う時、人レベルの目線で対応しようと足掻くと、結果的には相手を呪い、憎むことになります。それは敵と共倒れになり泥沼に陥ることです。そんな時は人を見ず、神様を見上げましょう。神を見上げれば自然に賛美できます。賛美の力が、あなたを勝利に導きます。従順とは「信じる方」に「かける」ことです。勇気を持って主を信頼し主の言葉にかけてみませんか?道は開けます。

主の勝利は永遠です。主の勝利を讃え、おぼつかない自分の環境を主なる神の環境と重ねてみませんか?自分、自分、自力で生きて行くのが大道の世の中、私たちのために、ご自身を捨てられたキリストは私たちに「従いなさい」(ヨハネによる福音書21:19)と言われます。それは滅私奉公せよということではありません。キリストに倣って自分を捨ててこそ、逆に初めて自分が楽に生かされ輝くのです。


人間の命は儚く、誰しもが、いつかはキノコのように、音もなく地上から姿を消して行きます。その日が来たとしても「愛」は残ります。コリント信徒への手紙1の13:8には「愛は決して滅びない」とあります。永遠の命とは、愛そのものかもしれません。主を賛美する人生を歩みませんか?なにも賛美チームに入らなくても、言ってしまえば教会に行かなくても主を賛美できます。あなたの人生のあらゆる道にキリストのレッドカーペットが敷かれていますから、いつでもどこでも何をしていても主を賛美することができます。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 ーーマタイによる福音書22:37