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聖書タイム 2020年11月:「試練の時の歌声『哀歌』」

山形優子フットマンの執筆・翻訳
クリスチャン新聞福音版に「こころの食卓」連載中
いのちのことば社」翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノック著

イングランドは2度目のロックダウンを迎えました。今月は旧約聖書の「哀歌」が励みです。哀歌が書かれたのは紀元前587年前後、エルサレムが宿敵バビロンによって戦略された頃。書き手は預言者エレミヤが有力説で、5つの詩歌で構成されています。自分達は愛され、選ばれた民という奢りから、多くの罪を犯したイスラエルの民を見て、神は、親が子を躾けるのと同様にバビロンを使ってイスラエルの民をバビロン捕囚というかん難(艱難)にあわされました。つまり哀歌はロックダウンにも似た捕囚という試練時の歌です。

悲しみと苦しさが溢れる詩は、読む者の心を貫きます。3章の第3の歌は「わたしは 主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」と始まります。続いて「嘲りを受け、苦渋を飲ませられ、砂利をかまされ、幸福を忘れた者となり」、18節では「わたしの生きる力は絶えた」とあります。これは、どん底に落ちた人の状態です。しかし神の前で手も足も出なくなった時、神を恨むどころか「ただ主を待ち望もう」と歌います。20節では「貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む」と続きます。

私たちはバビロンの捕虜ではないですが、なんらかの形で「この世」の捕囚と化しています。それは務める会社かもしれません。子供をダメにする「毒親」かもしれません。パンデミックかもしれません。クリスチャンであってもなくても試練はあります。しかし、どん底の先に必ず神の愛の抱擁が待っているのを知るか否かで、耐久力には差がつきます。哀歌の時代も然り。人々が、かん難に耐えられたのは信仰の故でした。

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日本では一般に「イワシの頭も信心」とか「信じる者は強い」とか言います。が、哀歌に描かれた信仰は、闇雲の盲信ではなく、神がどういう性質かを知っていたから持てた絆とも言える信頼感です。23節には「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」とあります。かん難のきっかけが何であれ、「主の御手に打たれた」と感じれる人は幸いです。その人は苦しみに静かに身を任せ、謙虚に待てば、神が自分を再生してくれることを知っています。神はまた、ちょうど山登りで険しい峠に差し掛かった時、互いに励ましあえる仲間が必要なように、苦難の折、周りに峠越え仲間まで用意してくださいます。語り祈り合える友達は貴重です。

新約聖書コリントの信徒への手紙1の13章13節には「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」とあります。これこそ神の性質です。神の誠実さは、私たちの信仰よりも確かですから希望があるのです。そして神は私たちを許す愛の方。すべての悪、すべての罪の捕囚から私たちの魂を解放するために独り子イエス・キリストをこの世に送ってくださった方。再生の時、古い自分は過ぎ去り、魂には新しい翼が与えられます。新たな飛翔が待っています。