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聖書タイム:2020年10月「聖霊の輝き」

text by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳
クリスチャン新聞福音版に「こころの食卓」連載中
いのちのことば社」翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノック著

先日、夜中に目が覚めました。その時、ひらめいた言葉が「血潮燦々(さんさん)」。その後、「聖霊は血潮」という小さな声を聞いたように思いました。しばらく眠れなくなり、そのことについて思いを巡らせました。燦々とは「太陽が燦々と輝く」というような時に使いますが、「血潮が燦々」とは、私たちが犯した罪を贖うために、神の子イエスキリストが十字架の上で流した、あの血潮が、ルビーのような真紅の粒子として空中にキラキラと光る様なのかもしれません。

「聖霊は血潮」とは? これを解明するには聖霊の正体を少し理解する必要があります。「ヨハネによる福音書」16章4~15節に書いてあるキリスト自身の解説によれば、聖霊とは「あなたの弁護者、すべてを明らかにする者、あなたを導き真理を悟らせる真理の霊」です。キリストが地上で弟子たちと共にいた時、聖霊は地上にはまだいませんでした。キリストの十字架の死、そして3日目の復活、その後に天の父なる神の元に昇天した後、やっと聖霊は降りました。これは聖霊降臨日(ペンテコステ)と呼ばれ、新約聖書「使徒の働き」2章に記録されています。

つまり聖霊は、キリストと選手交代で地上に降りたのです。いえいえ、やっと地上に降りることが可能になったと言った方がよいでしょう。「神の子の命=血」が、人の罪の汚れを清めたので、聖なる霊でも地上にとどまれるようになったのです。けれども、ここで頭を一捻り。人の罪って何? これが意外に難しいのです。たいていの人は「罪ってそんなにひどいもの?」「私は潔白で罪人ではない」等々と思いがちです。罪は人間の視点からは見えにくいのです。では、神の視点ならどうでしょう? それこそ私たちには、神の視点がピンと来ないはず。しかし、確かに言えることは、私たち人間は神の清さを全く知らないということです。人間の潔白さと、神の清さには、雲泥の差があります。しかし神は、それでも人を愛し、どうにか人を神の家族の和に入れ、人と共に暮らすことを望まれます。

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先月から聖書の会で読み始めた「使徒の働き」はポスト・キリスト時代の幕開け、聖霊によって強められ活躍しまくった使徒たちの記録書です。目には見えない聖霊粒子のようなものを私は行間に感じます。その聖霊粒子の一つ一つがキリストの血潮でコーティングされているように思えてなりません。神の霊である聖霊に、人の肉の形をとった「神の子の命=血潮」が合体、天と地の調和がそこにあります。その聖霊は私たちを導き、祈りを天につないでくださいます。私たちの心の中に神が蒔(ま)かれた種(聖書の言葉)も聖霊粒子、辛子種のように小さいと聖書に書かれている信仰も聖霊粒子でしょう。今朝、私は「血潮燦々(さんさん)」と口にしながら10月の森を散歩しました。吸い込む息を通し、心の中に聖霊粒子が充満し、今日も辛子種信仰を育ててくれます。喜びに満ち溢れ、一息ごとに愛なる神を賛美します。