わたしと野田村vol.3
こんにちは。「野田村にICU旋風を吹き起こす会」です。今回もメンバーと野田村の出会いについて書いていきたいと思います。
第3弾は去年から参加してるメンバーのお話です!
富山県の小さな港町で生まれた私にとって「地方」は馴染みのある言葉でありながらも、決して快く肯定できる言葉ではありませんでした。上京するまで大袈裟ではなく毎日眺めていた海への思いも、私の成長とともに変化しています。
海がある喜び、都会への憧れからくる鬱陶しさ、そして離れてわかる誇り
私にとって地元は「ふるさと」になった感覚を覚えています
そんな大切な街を離れて一年が経った頃、大学生活で何も始めていない自分と周りとのギャップに焦りを感じ始めていました。
自分も何かしなくてはいけない。焦りから生まれた使命感に駆られながらも、自身のやってみたい活動に当てはまる活動がなく中々一歩を踏み出すことができませんでした。
そんな時、授業中に当時3年生だった初期メンバーの先輩がのだせんの活動紹介をしていました。どこに惹かれたかと聞かれれば、思い出すことはできないけれど、私の手は自然と応募フォームの記入欄に走っていました。
なんとなく一歩踏み出すのはそんな感じでいいのかもしれないと今になって思います。そんな、慌てながらに参加したのがのだせんで、私の大学生活第二章が始まった瞬間でした。
しかし、その始まりは決していいものではありませんでした。
のだせんに参加してからすぐに病気が見つかり、夏に行われた2回の合宿に行くことはできませんでした。
仕方ないと思いつつも、何かできることはあるからやりたい。でも、できない。
当時はそんな感情に溢れ、野田村に行ったことがない自分がのだせんに居てもいいのかと疑問に思うこともありました。自然とモチベーションは下がっていき、周りのメンバーとの差も感じていました。
それでも、メンバーが話す野田村の魅力を感じたい。こんなすごい人たちが熱狂的になる村には一体何があるのか知りたい。そんな思いがあの時の私の支えになっていました。
ようやく今年の冬に野田村に行くことができました。
いつも通り迷うだろうなと思い、東京の出発場所に1時間前に着くようにしたのも正解でした。もう東京に来て2年になるのにいまだに場所の感覚が掴めず、駅員さんに尋ねながらついた夜行バスのターミナル。数時間後には念願の野田村にいるんだ。それだけで重いリュックも軽くなっていました。
翌日の正午前に、ついに野田村に到着しました。もっと興奮するのかと思えば、意外と冷静でした。ただ、写真を見返せば、すごくテンションが高い様子でした。
まず最初に子ども食堂を通して子供達と関わることができました。まるで太陽のように輝く笑顔は若さゆえのものなのか、負けじとこちら側も元気で頑張ろうと思えました。また、いろんな形で関わることができたらいいなと次も楽しみにしています。
また、会場に向かう途中にメンバーが話していた建物やお店を見ることができ、少し安心した記憶があります。ようやく、ようやく、ようやく、、そんな思いが先行していたのかな。
今回の野田村滞在で一番記憶に残っているのは、防潮堤の高さでした。車で海に向かう際に右手に見えたその情景を忘れることはないでしょう。
私は年末年始に地元に帰省した際、令和六年能登半島地震に被災しました。これまでとは違い、海を一度も見ない帰省になりました。それどころか、初めて恐怖を覚えました。そのような経験もあり、震災への意識が高まっていました。野田村に訪れた際には積極的に震災関連の資料や展示品を見ることができ、地震の恐ろしさを改めて理解できました。北陸の復興に向けて何が自分にできるだろうか。常に考え、悩み続けています。
二日目の朝、高い防潮堤の内側にある海に行きました。これまで自分が見てきた海とは反対側にある海。すごく新鮮な感情でした。あ、これは初めて見る海だと意外とわかるもので、心の中で初めましてと挨拶をしました。メンバーと一緒に迎えた日の出の景色は本当に綺麗でした。
私にとって初めての野田村合宿は一泊二日と短いものでした。しかし、実際に訪れたからこそ実感できる魅力に最後まで楽しませていただきました。先輩方は、野田村を「ふるさと」だと思っています。いつか、私もそう言うふうに思えるぐらい関われたらいいなと。上京三年目に入る今年。のだせんを通して、いろんなことに挑戦していきたいと思います。