【 ストレイシープ 5 】
横澤は佳江の後輩から、自分には子どもが作れないことを知らされる。しかし、すでに横澤には妻との間に子どもが生まれていた。
突然の告知に動揺した横澤には、その後の言い訳じみた研究員の言葉など、ほとんど聞こえていない。
「定期的な追跡調査にご協力お願いしたいのですが……」ということをその研究員は話していたが、横澤は「失礼いたします」とだけ答えて、研究室を後にした。
この研究員に少しでも、被験者の今の生活状況に気を配る気遣いがあればよかったのだが、あまりにもストレートに話したため、横澤の受けたショックはとても大きかった。
唯一の相談相手の佳江は体調を崩して休んでいる。そのため、横澤は一人悩み抜くことになってしまったのである。
この騒動を佳江が知ったのは、病院を退院してからのことだった。
年の瀬の慌ただしさがピークになって、クリスマスソングが街を賑わす十二月の下旬、体調が徐々に回復してきた佳江は、研究室に自分の状況を伝えるために連絡を入れた。
しかしその時にはまだ追跡調査は始まっておらず、『入院中に話すほどのこともないだろう』という教授の一声で、佳江には研究室に戻ってから説明されることになっていた。
そして年が明けた一月の初旬、きっちり三週間で体調を整えて、佳江は七草粥の二日後に退院した。その翌日、佳江は退院の連絡と今後を打ち合わせるため、研究室に連絡を入れた。その時電話を受けた後輩から、横澤との経緯を知らされたのである。
「なんてことしてくれたの! なんでその前に連絡くれなかったのよ」
「だって高城先輩、お休みだったから……」
「とにかく、横澤君はなんて言ってたの」
「いや、特に何も言わずに帰られましたが……」
「…………」
「どうします? もう一度、私が連絡とってみましょうか?」
「いい、そっちに戻ってから私が連絡します」
そう言って、佳江は電話を切った。
「なるほど、だいたいの事情はわかりました。その後、そのご友人とは連絡とれたのですか?」
「連絡していません。体調を崩しているということだったので……」
直人が聞くと、横澤はしおだれて答えた。
「そうですか……」
「先生、私はどうすればいいのでしょうか?」
すがるような目で、横澤は直人を見つめている。
「そうですね……」
さすがに直人も、「すぐに良案を……」というわけにもいかなかった。
「中途半端に行動を起こすと、横澤の家庭は再生不能なほど、ズタズタに壊れてしまうだろう」と、考えていたのだ。
「ところで横澤さん、こんな重要なことをなぜ、私に相談されようと考えたのですか?」
「はい、私も悩みました。孫をめちゃめちゃに可愛がっている親には話せない。古くからの友人や、仕事でお世話になっている上司にとも考えたのですが、事情が事情なだけに踏ん切りがつかない。その人たちでは私に近いだけに、冷静さを欠いて美智子に、あ、妻は美智子と言います。私の妻に詰問することも考えられる。だからといって、私だけでは何をどうすればいいのか…… 妻を信じたいとは思っているのですが、あそこまではっきりと「子どもはできない」と断言されると、信じる心が揺らぐと言うか……」
「それは、そうでしょう」
「それで、いろいろ悶々とした日々を過ごしていたわけです。そんな時、ふとしたことから先生のことを思い出しまして…… 先生なら全く関わりのない第三者なわけですから、冷静に判断され最善の解決策を授けて頂けるのでは…… と思いまして……」
「なるほどね、そういうことでしたか」
「一家の一大事に、とても冷静な判断をしている」そんな風に直人は横澤を見ていた。
「これなら、まだ大丈夫かもしれない」と考え、直人は話始めた。
「では、私もカウンセラーとしてお話させて頂きます」
「お願いします」
「まず、そのご友人と至急連絡をとり、ことの顛末をはっきりさせましょう。話はそれからです。もしかして、単純な間違いということも考えられます」
「間違い? ですか」
「そうです。例えば『検体の名前を取り違えていた』とかです。あまりそのようなミスは期待できませんが、いずれにしてもそのご友人とお話しすることです。それから、再検査してもらいましょう。本当に検査結果に間違いがないのか、再検査してはっきりさせましょう」
「それでも結果が変わらなかった時は、どうすれば……」
「とにかく、今言ったことをすぐに実行してください。その結果しだいで、これからのことを決めればいいのです。このはっきりした結果がわかるまで、次の行動を起こしてはいけません。大丈夫とは思いますが、間違っても今の段階で奥さんに詰問などなさらないことです。それから普段通りの生活を心掛けてください。いつも通りのお父さんでいてください。家族、特に子どもさんは親の感情の変化を、いち早く察知すると言われています。難しいことですが、できるだけご家族に気づかれないように行動してください。それが今できる最善策です」
「先生、大丈夫でしょうか?」
「今できることは、これだけです。結果に期待しましょう」
「わかりました。明日、連絡してみます」
「これからは、私に直接連絡してください」と言って、直人は名刺を横澤に渡した。
「ありがとうございました。少しだけ心が楽になりました」
直人の名刺を大事に財布に終い、横澤は店を出た。
「さて、どうなることか……」そんなことを考えながら、「マスター、ご馳走さま」と言って、直人も店を出た。
外は冷たい北風が吹いていた。嬉しそうに粉雪が北風と遊んでいた。
佳江に横澤から連絡があったのは一月の中旬、佳江が退院して一週間が過ぎた時だった。 明日には仙台に戻るつもりでいろいろと準備していた時、佳江のスマホが着信を知らせた。
「きたか!」
発信者の名前を見てから、大きく息を吐いて佳江は電話を受ける。
「高城さんですか?」
改まった言い方で、横澤の電話は始まった。
「和哉くんでしょう。なに、そんなに他人行儀な言い方して」
佳江は努めて明るく電話を受ける。横澤の用件には察しがついていたのだ。
「やっと連絡がついた。今、どこにいるんだ?」
「実家。実は母が亡くなったの。その上、私はインフルをこじらせて入院してたの。やっと一週間前に退院できて、その後は自宅療養ってわけ。参っちゃうわ」
「そうだったのか、お前も大変だったんだな。じゃ、まだ実家にいるのか?」
「明日には仙台に戻るつもりよ。今その準備中なの」
「そんな忙しい時に申し訳ないんだけど、仙台に戻ったらちょっと時間作れないかな? 折り入って相談したいことがあるんだよ」
「わかっているわ、前に提供してもらった例の件でしょう。この前研究室に連絡した時、だいたいの経緯は聞いたわ」
「うん…… これにはオレもちょっと参っているんだ」
「わかった。でも、私も一旦研究室に行ってみないと、なんとも言えないのよ。ちょっとだけ時間を頂戴。状況を確かめてこっちから連絡するから」
「忙しい時に悪いな」
「そんなことない。私が休んじゃったから、違う研究員が和哉君に不用意なこと言っちゃったんだもの、私のミスのようなものよ。とにかく、状況を調べてすぐに連絡するから」
「わかった。本当に忙しい時に悪いんだけど、なるべく早く会いたい」
「わかっているわ、本当にごめんなさい。明日絶対連絡するから、待ってて」
「うん、わかった」
「ふぅ……」横澤との電話が終わり、佳江はため息をついた。
少しの間ペタリと座り込んでいた佳江だったが、すぐスマホに手を伸ばした。呼び出し音が数回流れてから、相手に電話がつながる。
「はい、冨田です」
「佳江よ、いまどこ?」
「おう、佳江女史か、久しぶりだなぁ~ あ、明けましておめでとうもまだじゃないか」
「何呑気なこと言ってるのよ。今、電話大丈夫?」
「あぁ、大丈夫かも…… 運転中だけどね」
「危ないじゃない、運転中に電話してて」
「おいおい、電話してきたのはお前だろう。何怒ってるんだよ」
「あ、そうだった。ちょっと話があるの、車停めてから電話して」
「ちょっと待って…… と。今、停めたから大丈夫だよ。どうしたんだ、そんなに慌てて?」
「大変なことになってしまったのよ」
「何が?」
「例の件、和哉くんにバレた!」
「なんだって! どういうことだ!」
冨田は驚いて、車の中で大きな声をだした。
「ごめんなさい。私、母が急に亡くなるやら、インフルを悪化させるやらで、長い休みを取ってしまったのよ。その間に研究室で追跡調査の方針が決まって、その中に和哉くんが入ってしまってたのよ」
「止められなかったのか、その調査を!」
「だって、私だって大変だったのよ。だから、そんなことになっていたなんて、ぜんぜん知らなかったのよ」
「で、和哉はなんて言ってるんだ」
「会いたいって、すぐにでもって言ってる」
「いつ、会うんだ?」
「私は今実家なの。明日には仙台に帰るから、それからってことになるわ」
「そうか…… わかった。バレてしまったならしかたない。ちょっとオレも考えてみる。また、こっちから連絡する」
「わかったわ」
佳江は、秘密を共有する冨田の声を聞いて、少しだけ安心した。事態に変化がなくても秘密を共有する者がいるというだけで、今の佳江には心強く感じられた。
仙台に戻った佳江は、自分のマンションに荷物だけ置き、すぐ研究室に行った。教授に挨拶し、手土産を後輩の女の子に渡すと、男性の後輩をミーティングルームに呼んだ。ことの顛末を詳しく確認するためだ。
「青木くん、ちょっと」
「はい」
青木と呼ばれた彼が、横澤と面談し電話で佳江から叱咤された研究員である。
「そうだったの…… なるほどね、大まかな事情はわかったわ。横澤さんのことは私がすべて引き継ぎます。あなたはもう何もしなくていいわ」
「わかりました。いろいろすみませんでした」
「別にあなたを責めているわけじゃないのよ。ただ、こういうデリケートな問題を取り扱う時には、もう少し相手に対する配慮が必要でしょうと、私は思うわよ」
「わかりました、これから気をつけるようにします」
そう言うと、青木は自分の机に戻った。
-つづく-
Facebook公開日 3/12 2021
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