【あめの物語 出逢い編 11】
あめと待ち合わせた公園で、初対面のあめを思わず抱きしめてしまった佐井。あめは「気にしないで」と言っていたが、その一瞬で恋に落ちた佐井の病は酷く、まったく仕事が手につかない程だった。
唯一その事情を知る美香に、詩織は釘をさす。
「いい美香ちゃん、このことは絶対内緒よ。特に会社の人には話しちゃダメ、わかるわね。佐井さんの部長としての立場を守ってあげなきゃ」
「わかっているんだけどね…… あぁ~ 話したい」美香の心は激しく葛藤していた。
「届いたぞ、こりゃ最高の出来だ」
河合が『社内報』を持って美香と吉田のところにきた。
「これはいい。さすが企画室、キレイに載せてくれましたね」
「配布は月末だが、企画室が刷り上がったばかりのものを送ってくれた。部長に見せなきゃ」
河合はそう言って佐井を見た。が、すぐ向き直って美香に聞く。
「古林、部長変じゃないか?」
「でしょう、河合さん。こいつ教えてくれないんですよ」
「教えるって、なにをですか。私はなにも知らないのに。それよりこれ部長に見せましょう」
三人は揃って佐井の机の前に行った。
「部長、お疲れ様です」
「あ、河合か、お疲れ様」
「社内報ができました。いい仕上がりになっています」
佐井は社内報に目を通す。
「うん、いいできだな……」
そう言った佐井の目には、着物姿の美香が桜の下で抱きしめたあめとだぶって見える。
しかしそんなあめからは、お花見の後佐井になんのコンタクトもなかった。
「そりゃそうだろう。いきなり抱きしめられたんだ、もう会いたくもないだろう。だがオレは……」
「部長……」
河合の声がこだまのように遠くに聞こえている。
「部長、聞いてますか?」
「あ、悪い、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれ」
「大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ。すまん、心配かけたな」
「なら、いいのですが…… これを詩織さんとあめさんにお見せしたいのですが、どうでしょうか?」
「なに、あめさんに!」
佐井は急に大きな声をだした。驚いたのはそばにいた三人だ。
「なるほどね~ そういうことか、古林」
「え、なんですか、吉田さん」
「まぁいい、そのうちはっきりするさ」
意味深な言葉を残して、吉田は自分の席に戻った。
その夜、佐井と編集メンバー三人は詩織の店にいた。
「うわぁ~ スゴくキレイですね。美香ちゃん、とってもかわいいわよ。この文章も美香ちゃんが書いたの? 凄すぎよ」
「これは…… 吉田さんのアドバイスです。私一人じゃとても書けなかった。凄いんですよ、吉田さんて」
「でも、この古林の文章がまずあって、それでこれができたんです。凄いのはこいつです」
いつの間にか、このメンバーはお互いを称えあえるようになっていた。酒も入り、編集の裏話で盛り上がっていたが、佐井はやはり心ここに在らずだった。
「佐井さん、あれからずっと?」
「そう……」
「佐井さんも人の子、だったか……」
ひそひそと内緒話をしている二人に河合が口を挟む。
「部長がどうしたって」
「まぁいいじゃないですか、飲みましょう河合さん」
吉田がすぐに納めてくれたので、美香は両手を合わせ、吉田に「ありがとう」のサインを送った。
「やはりな、原因はその『あめさん』か。今日ここに『あめさん』が来てたら、どうなっていたかなぁ……」
「怖いこと言わないで……」
吉田と美香が小さな声で話していると、入口の扉が開いた。一瞬、二人は凍りついたように固まったが、入って来たのは常連の男性だった。
「ビックリした」ほっとした美香が呟く。
時間は夜の九時を過ぎ、常連の客が多くなったので、佐井たちは帰ることにした。ゆっくり階段を降りる四人を見送るため、詩織も店を出た。五人が揃ってビルを出ると、外は弱い雨になっていた。
「さて今日は帰るぞ、みんな」
「わかりました。お疲れ様です」
佐井にそう言われ、まず河合と吉田が離れた。
美香は詩織に目でサインを送り、「それじゃ部長、お疲れ様でした」と言って、二人の後を追いかけるように通りにむかって走り出した。
「佐井さん、よかったらもう少し飲みませんか?」
「あぁ…… ありがとう。でも、帰るよ今日は」
「そうですか…… では、ありがとうございました。お気をつけて」
寂しげな佐井の後ろ姿を見送ってから、詩織は店に戻った。
大町を横切る晩翠通りを佐井は一人で歩いていた。タクシーが客と思うのだろう、スピードを落して様子を見るように通り過ぎる。
「ふぅ……」と、思わずため息がもれた。
一瞬雨が止んだように佐井は感じた。微かに薫衣香の香りがする。忘れられないこのラベンダーの香り、つい先日この香りの女性を佐井は抱きしめた。
ハッとした佐井が振り返ると、そこには佐井に傘をさしかけた女性が立っていた。今ではほとんど見かけなくなった和服を上品に着こなして、その女性は微笑んでいる。
「佐井さん、お元気なさそうですが、どうしたのですか?」
「あめさん、どうしてここに?」
「あめでかまいません。あの日のように、呼び捨てで……」
「あめ」
「はい」
「逢いたかった」
抱き合う二人を覆い隠すように、弱い雨が降り続いていた。
そんな二人の出逢いを思い出しながら、佐井は慈雨に聞いた。
「あの時、桜の下でいきなりオレはお前を抱きしめた。なぜお前はオレを拒否しなかったんだ?」
「そうだったわね。あんまり突然だったから、どうしていいのかわからなかったのよ」
「そうは見えなかったんだが……」
「平静を装っていただけよ、ものすごくドキドキだったんだから。でも、その訳はすぐにわかったわ。あの夜、あなたに初めて抱かれたあの雨の夜に」
「どういうことだ?」
「私ね、体を重ねた時…… 心も一緒に重なったと思えたの、あなたが初めてなの。なぜあなたなのかはわからない。ただ、『あぁ…… この人なんだ』って、あなたに抱かれながら、はっきりわかったの」
佐井は慈雨の唇に自分の唇を近づけた。慈雨は佐井の目をまっすぐに見つめていたが、ゆっくり瞼を閉じる。
「バカね、口紅が移ったわ」
「誰も待ってはいないんだ、構いはしない」
佐井の唇を指で拭いながら、慈雨が聞く。
「あなたはどうして、あの桜の下で私を抱きしめたの?」
「オレにもわからない、なぜなのか…… 気がついたらお前を抱きしめていた」
「やっぱり…… 引き寄せあったのかなぁ~ 私たち」
「あんまり現実的じゃないが、その表現が一番近いように思うよ」
肌襦袢の合わせ目から、佐井の手が慈雨の胸に滑り込む。
「ダメよ……」
佐井の指の動きに合わせるように、慈雨は身悶えする。快楽の余韻が残る慈雨の体は敏感に反応し、言葉とは裏腹に、また情欲に溺れたいと疼きはじめる。
「体の相性に勝るものはないそうだ。『どんなに趣味や価値観が同じでも、肌を合わせた時の安息と、それに続く快楽の深さを共有できなければ、感情はいずれしおだれてしまう』と、浅田次郎が小説の中で書いていた」
「あなたとは、きっと…… だから化粧が……」
「じゃ、やめるか?」
「いじわる……」
「オレはもう、こいつとは別れられない」佐井は慈雨の肌襦袢の紐をほどきながら、自分の心に素直になろうと決めた。
「転勤はしないよ。もし辞令が来たら、突き返して会社を辞める。オレはお前を離さない」
「本当に…… それでいいの?」
「あぁ、今はっきりとわかった。オレはお前と別れられない」
慈雨が貪りつくように、佐井の唇を吸った。
外はまだ弱い雨が降り続いていた。
…完…
Facebook公開日 4/6 2019
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