【 ストレイシープ 7
再検査の話がすんなりまとまったことで、佳江は落ち着き、横澤もやれやれという安堵の表情を見せた。
「ところでさ、和哉くん」
「なんだい?」
「この話、誰かにした。例えば奥さんとか?」
「するわけないだろう、女房になんて!」
「よかった。私は再検査の結果がはっきりするまで、奥さんには黙っていた方がいいと思うの」
「わかってる。オレ気が小さいからさ、とても怖くて話せないよ誰にも……」
「あれ、もしかして和哉くんってO型の人?」
「うん、よくわかったね」
「エヘヘ、何となくそうかなぁ~ って思った」
「お前は?」
「私はB型、奥さんは?」
「AB型だったかなぁ~」
「そうなんだ、尻に敷かれてるって感じするな~」
「ほっとけ。ところでお前こそ、このこと誰かに話したりしてないだろうな! 知り合いとかに?」
「え! そんなことしないわ。だってこれ個人情報よ。知ってるのは研究室の人間だけよ」
そう言った佳江の声はうわずっていて、視線は泳ぐようにあちこちに向いている。
相手が冨田だったら、おそらく一発で見抜かれただろう。しかし横澤は佳江の嘘が見抜けない。なぜなら、横澤は佳江と話している最中に、一度もまともに佳江の目を見ていないのだ。
「大丈夫、和哉くんにはばれてないわ」
そんな横澤の視線の先を見て、佳江は嘘がばれないことを確信していた。
「それじゃちょっとまとめるね。和哉くんの要望は私がこの手で再検査すること。再検査の日程は明日私が調整して、和哉くんにメッセージで送ること。検査結果がはっきりするまでは、この話を誰にもしないこと。これからのことは、再検査の結果を見てから考える。これでいい?」
「あぁオーケーだ。よろしく頼む」
「わかったわ。何か気づいたこととかあったら、また連絡頂戴」
「なんだ、もう帰るのか?」
「うん、だって私、いろいろあってほぼ一か月休んだのよ。いろんな雑用がたまりにたまってもう大変なの」
「あ、そうだったな。悪かったなそんな時に」
「いいのよ。電話でも話したけど、これは私のミスのようなものだから気にしないで」
「そうか…… じゃ、引き留めないよ。今は『楽しく酒でも』って感じじゃないからさ」
「そうね、そっちはこの問題が片付いたらにしよう。ということで、私もう失礼していいかしら? 自分の部屋も心配なんだ。何せ部屋に帰るのも一か月ぶりだからさ」
「わかった。じゃ、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。じゃ明日、連絡するね」
そう言って佳江は店を出た。
「上出来です」
直人はそう言いながら、横澤のボックスに移動してきた。
「あ、先生。あれでよかったですか?」
「ちゃんと一人できるじゃないですか、横澤さん」
「背中が汗でびっしょりですよ」
「第一関門は突破です。後は再検査の結果次第です」
「そうですね…… あぁ胃に穴が空きそうですよ、先生」
「ま、気持ちはわかりますが、あまり考え過ぎないことです。先のことは誰にもわかりません。わからないことを、あれこれ考えることほど無意味なことはありません」
「そう言われても、考えてしまいますよ……」
「確かに考えてしまうでしょう。でも、その時に気づいてください。先のことを考えるということは、本当は考えているのじゃなくて、ただ自分で妄想しているだけです。妄想は現実ではありません。例えるなら、見たこともない幽霊が出るかもしれないと思いながら、夜道を歩いているのと一緒です。わかりますか?」
「はぁ…… 理屈としてはそうかとも思いますが……」
「ですね。全てを理屈で割り切れるような生き方は、なかなかできないものです。ただ、これが理解できるのなら、少しずつでもその理解に心を近づける努力はするべきだと思いますよ。例えば十の不安があって、何もしないのなら十の不安のままですが、少し心の動きに気をつければ半分の五の不安になるとしたら、私なら五の不安になるように、自分の心を近づける。ということです」
「それは努力でできると?」
「と、私は考えています。私はそう考えるようになってから、不安になることがとても少なくなりました。そして、私がコンサルさせて頂いたクライアントさんの多くが、この考え方を実践され『不安が減った』と言っています」
「先生、私にもできるでしょうか?」
「簡単なことです。考えてもしかたないことは、考えないことです」
「そう簡単に言うけど……」という思いが、横澤の頭に浮かんでいた。
「ところで、今の方がお友だちの?」
「はい、私に『精液をサンプルとして提供して欲しい』と依頼してきた『高城佳江』本人です」
「なるほど、頭の良さそうな方だ」
「秀才ですよ。高校でもあいつに敵う奴はいなかった。たぶん当時は県内でもトップだったはずです。なにせ、医学部に現役入学ですからね」
「高城佳江」と直人は口の中で反復していた。
「さてと、私たちも帰りましょう」
そう言って、直人は席を立つ。
横澤は疲れきったように「よいしょ」と、自分に気合いでも入れるかのような素振りで、テーブルに手をつきながら立ち上がった。
「そうだ、再検査の日程がわかったら教えて下さいね」
店を出て歩きながら、思い出したように直人が言う。
「わかりました、すぐ連絡します」
二人は駅に向かって歩いていたが、「このまま帰りたくない」という思いが、横澤から溢れ出ていた。
「先生、少し呑みませんか?」
「いいですよ、お付き合いします」
「ありがとうございます」
そう言うと横澤は、車線の広い東二番丁通りを渡り本町に入った。
「鍋でもつつきましょう」
そう言って横澤は小料理店ののれんをくぐる。その小さな店は女将が一人で切り盛りしていた。
「女将、鍋が食べたくて来たよ」
「あら、横澤さん。久しぶりね~」
横澤が常連客なのは女将の親しげな笑顔ですぐにわかった。
「こんばんは、おじゃまします」
直人も横澤の後から入り女将に挨拶する。
「いらっしゃいませ」
「奥、いいかな?」
横澤が店の奥にある四人掛けのテーブルを指さして女将に聞いた。
「めずらしいわね。いいわよ、どうぞ」
二人はそのテーブル席に腰を落とす。時間が早いからか店には客が誰もいなかった。
「熱燗でいいでしょ」
そう言いながら女将は、徳利とお猪口それにお通しを持ってテーブルにやってきた。
「どうぞ」と、直人にお猪口を持たせ酒を注ぐ。
横澤にもお猪口を持たせて酒を注ぎながら「寄せ鍋でいいでしょ」と言った。
女将が奥で鍋を準備している。それを横目で確かめてから横澤は話し出した。
「女房は…… よくできた女なんです。あんな境遇で育ったのに、なんで? って思うんです。今でも」
「あんな境遇?」
直人が横澤に聞き返す。
「話してませんでしたね。美智子は子どもの時保護され、その後は今私が勤めている施設で育ったんです。記録を見ると虐待でした」
「そうだったんですか……」
「かなり酷いものだったと、記録に残されていました」
「実の親から?」
「いいえ、同居していた母親の男からです。ヒモだったようです」
「母親ではそれを止められなかった……」
「そうだったのでしょうね…… 先生、『愛情を受けた量と、愛情を与える量は正比例する』という考え方があるそうですね。そうならば、美智子のように『あまり愛情を受けてこなかった子どもは、他人に優しくなれない』ということになりませんか」
「確かに、そういう考え方はあります。でも、愛情を受けた量とは、物質的なものではなく本人の感じ方です。『自分は愛されていると、どれだけ感じられたか』ということです。奥さんの場合、たとえば母親から大きな愛を感じていたのなら、今でもその愛情を子どもさんと横澤さん、あなたに与えられる。ということです」
「美智子は小学三年生の時に保護されました。まだ十歳の時です。そんな短い間でも、人に惜しまず愛を与えられるほどの愛情を、母親から受け取っていたということでしょうか」
「時間は関係ありません。時間も物質と同じで、誰かが自分たちの都合で勝手に作り出したものです。『たとえ一瞬であったとしても、魂が震えるほどの大きな愛を人間は感じることができる』私はそう考えています。反対に『何十年も大きな愛に包まれた生活を送っていながら、まったくその愛情に気づけない』という不幸な人生を送る場合も、またあるのです」
「魂が震えるほどの愛を…… ですか」
「なにか心当たりがあるのですか」
「愛かどうかはわかりませんが…… 母親は酷い虐待を受けていた美智子をかばい、ある夜、男を包丁で刺したんです。何度も、何度も…… 『ごめんね、美智子ごめんね……』と謝りながら、ズタズタに男を刺し殺した……」
「まさか、子どもだった奥さんの目の前で!」
直人は驚いて横澤を見つめた。
「記録では、そうだったと……」
「そうでしたか…… 方法は間違っていたでしょう。しかし、子どもを守り抜きたい一心で行った母親のその行為を、通りすがりの殺人や強盗と同じ土俵で考えることはできない。奥さんの母親は、それ以外の方法でその男を遠ざけ、子どもを守る術を考えられなかったのでしょうね。事実、そういう類の男は山ほどいます」
「その通りです。しかし母親は殺人容疑で警察に逮捕されました。そして美智子は施設に保護された……」
「奥さんはそれからずっと施設で?」
「そうです。刑務所で美智子の母親は死にました。記録には持病が悪化してとなっています。美智子が中学一年生の時です」
「奥さんはその時の記憶を、今も引きずって?」
「覚えていないようです。不思議ですね、母親が男を刺したその時の、その場面だけが記憶からすっぽり抜け落ちているようなんです」
「そのようなことがあるみたいですね。心を壊してしまうような記憶は消し去る。人間の脳は自分の心を守るために、記憶の操作ができるように作られているのかもしれないですね」
直人と横澤は、ゆっくり熱燗を飲んだ。
「鍋ができましたよ」
そう言いながら、女将が卓上コンロを準備し、それに土鍋をかけた。
「しめっぽい話で、申し訳ありません」
「そんなことはありませんよ」
そんな二人の話を遮らないように、女将が黙って鍋を小皿に分けると、
「暖かいうちにどうぞ」
と言って二人に微笑み、テーブルを離れた。
「ありがとうございます」
直人は女将に礼を言ったが、横澤は黙り込んでいる。
そうして二人は、黙って鍋を食べた。
-つづく-
Facebook公開日 3/14 2021
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