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【 ストレイシープ 10 】


 朝の雪はすぐ止み陽射しが暖かくなった昼休み、紆余曲折うよきょくせつあったものの、なんとか横澤よこざわのことも解決して安堵あんどした佳江よしえは、昨夜の疲れも手伝って食堂のイスでうとうとと微睡まどろんでいた。

 スマホがポケットでふるえ、佳江はそんな至福しふくの世界から引き戻される。

「あ、和哉かずやくんね、こんにちは」

「佳江~ ありがとう」

 横澤の安心しきった声が、スマホからあふれるように流れてくる。

「本当によかった。オレ、オレ……」

「大丈夫? もしかして泣いてるの?」

「だってよ……」

「あはは、そんなになって。でも、気持ちはわかるわ。本当によかったって、私も思っているもの」

「どうだ、今夜祝杯に付き合えよ!」

「いいわよ、今日はなるべく早く終わらせるわ。また夕方電話頂戴ちょうだい

「オーケー! オレは定時だから、六時頃電話するよ」

「わかったわ、待ってるね」

 そう言って横澤からの電話を切ると、佳江は大きく伸びをした。

「ふぅ、これで厄介やっかいなことにもけりがついたわ。どれ、頑張って今日は早く終わらせよっと」そう自分に気合いを入れて、佳江は研究室に戻った。



 待ち合わせは、小さな焼き鳥店だった。どうやら横澤の一押いちおしらしい。焼き鳥はもちろんのこと、隠れた牛タンの名店だと横澤は言っていた。

「なるほど、これはスゴい!」

横澤一押し『牛タンの塩焼き』を口に入れ、佳江はその美味しさにおどろきの声を出した。

「こんな美味しい牛タン、初めてです」

 佳江の素直な感想が、焼き物を焼いていた店のオヤジを喜ばせた。

「タレも旨いぞ、どうだ一口。お嬢さん美人だから、サービスだ」

「え!  本当に。ありがとう、うれしいな~」

 少し大袈裟おおげさに喜んで見せてから、佳江はそのタレを口に含んだ。

「うわぁ! 美味しい。本当にどっちも美味しくて、もう他の店にはいけないわ」

「そうだろう! オレもこの店のを食ってから、浮気はしてないよ」

「わかるわ、その気持ち! これ知っちゃったら、もう他のは無理! って感じよ」

「横澤さんいいお嬢さんだね。あたしはこういう人大好きだよ」

 店のオヤジは、本当に上機嫌じょうきげんだった。

「お嬢さんって歳でもないんですよ、だって同級生だもんね」

 佳江は横澤の右腕にからまるような仕草しぐさで言った。

「え! 嘘だろう、とてもそうは見えないよ」

 あからさまにお世辞とわかるオヤジの話し方にも、機嫌きげんのいい二人は余裕の笑顔で答えた。

「今回のこと、本当にごめんなさいね。こっちのミスで和哉くんに、とんでもない迷惑めいわくかけちゃって

「もういいよ。間違いだってわかったんだから、なかったことにしようぜ」

「でもね、あってはいけない間違いよ、こんなことって。反省点だし、これからのいい教訓きょうくんになったわ」

「じゃ、それでいいじゃないか。『これからは気をつける』ってことでさ」

「本当、和哉くんでよかったわ。訴訟そしょうを起こされかねないくらいのミスなのに、それをなかったことにしよう! なんてさ」

「訴訟だなんて、そんな大袈裟おおげさな」

「そんなことないよ。おおやけになってたら、ワイドショーの餌食えじきだわ」

「そんなことになってたら、今頃家の回りはテレビカメラの行列ってことだな」

 そこまで言ってから、横澤は自分の言葉にゾッとした。そして、そんなことにならなかったことを心の底から喜んでいた。

「この話はもう終わりにしようぜ。オレ気が小さいから、思い出しただけでも背中に嫌な汗が流れて、寒気がするよ」

「そうね、あんまり楽しい話じゃないものね。じゃあ、もうおしまい!」

「そうだ、そうだ! もうおしまい!」

 その夜、佳江は酒のまわりが早かった。長く続いた緊張きんちょうがほぐれたのだろう。

「そろそろ帰ろうよ。私、酔っちゃったみたい」

「そうだな。オレもホッとしたら、なんか疲れがどっと出てきたよ」

 そんな会話を残して、二人は店を出た。

 帰る方向が同じだったため、二人はタクシーを拾って一緒に乗車した。

「先生の言った通りになったよ。あの人に相談してよかったって思っているよ」

 横澤は車の中で、こんな話を始めた。

「何? その先生って」

「あ、話してなかったっけ? ちょっとした知り合いでね。今度のことで、どうしていいかわからなかったから相談したんだ」

「そうだったの。で、どんな人なの?」

「どんなって言われても……」

「何している人なの?」

「なんだろう…… 確か自分では『小説家』って言ってたけど、それじゃ食えないから、いろんなこと書いてるみたいだよ。それから…… 心に問題を抱えている人にカウンセリングとかコンサルティングもしている人だから相談してみたんだよ」

「へぇ~ そんな知り合いがいたんだ」

「そう、仕事絡しごとがらみでそういう人とも接点せってんがあるんだ。その人から『再検査をすぐしてもらえ』って言われたんだ」

「え! ちょっと待って、和哉くん。あなた確か『誰にも話してない』って、私に言ったよね」

「あ、そうだった。ごめん、間違えてた。その人にだけは、全部話したんだ。それでどうすればいいか聞いたら『お前とすぐに連絡とって、すぐ再検査してもらえ』って言われたんだよ。『何かの間違いってこともあるから』ってね。それから『再検査の結果が出るまでは絶対誰にも話すな、特に再検査の結果が出る前に奥さんを詰問きつもんなんて、絶対しちゃいけない』っても言われた」

「へぇ~ なんだか面白そうな人ね。その人」

「だろう。本当に先生の言ってた通り、間違いだったんだからビックリだよ。あの話を鵜呑うのみにして女房をめたりしていたら、今頃オレの家庭は崩壊ほうかいしてたはずだからさ。どんなに感謝してもしきれないよ」

「そうだね…… ところで、その人なんて名前なの?」

「柴田さんって言うんだ。柴田直人しばたなおとさん」

「柴田さんね……」

 なぜかは自分でもわからない。ただ、横澤の話を聞きながら、佳江はむねの奥に引っ掛かるものを感じていた。

 のどに小魚の小さな骨が引っ掛かって取れないような「苦にはならないけど、気にはなる」そんな小さな違和感いわかんだった。

 佳江は自分の部屋に帰った後でも、なぜか横澤の言っていた先生こと「柴田直人」のことが、気になってしかたなかった。

「一度、会ってみるか……」そんなことまで佳江は考えていた。

 そんな佳江だったが、一晩ぐっすり眠ると、もう直人のことは記憶からなくなっていた。


 そうこうしているうちに季節は春へと変わった。梅の花が散って、仙台にも桜前線が入ってきた。

 満開の桜はまだ先だが、西公園にしこうえん榴ヶ岡公園つつじがおかこうえんには屋台も並び、気の早い連中は「真室川音頭まむろがわおんどよろしく『つぼみのうちから 通って来る~♪』」みたいに集まっている。

 そんな年度末の最終土曜日、横澤は佳江を花見に誘った。そこに冨田とみたも入って、三人は夕暮れ時の西公園にくりだした。

 久しぶりに顔をそろえた三人は、高校時代の話で盛り上がり、笑いあい、まるでクラス会状態だ。

 ほんの数か月前にあった例の検査結果にたんはっした一件は、三人の記憶きおくからとっくに消え去ったかのようだ。

 冨田は今回の一件をまったく知らないことになっている。話の中でうっかりボロが出るのを恐れていた佳江は、ことさらその話題を避けていた。

「飲みなおしにいこう」と横澤が言い出し、二人を連れて国分町こくぶんちょうに向かう。横澤が二人を誘った店は「Boot」だった。

「ステキなお店。なんでこんなお洒落しゃれなところ、和哉くん知ってるの」

「こりゃおどろいた。お前は焼き鳥専門、って思ってたのによ」

 二人は、普段ふだんの横澤からは想像そうぞうもつかない店に招待され、驚きをかくせないような感想を言い合っている。

 その夜そこにはもう一人、横澤の知り合いがいた。例の一件で横澤から相談を受けた直人が、編集者の女性と飲んでいたのだった。

 席についた横澤たち三人は、小声になって話している。佳江は桃がベースになったカクテルを注文し、バーテンダーの手際てぎわに見とれていた。

 初めの回でも書いたが、この店のスタッフはイケメンぞろいなのだ。だが、そんな佳江の視線しせん片隅かたすみに、何やらマジックショーさながらの場面が写る。

 男は器用きようにカードをあやつり、女性を喜ばせていた。いつの間にか佳江の視線は、そのマジックショーに釘付くぎずけとなる。

 そんな佳江のことが気になり、冨田は佳江の視線をった。

「あそこ、なんか面白そうなことやってるぞ」

 冨田はそう横澤に耳打みみうちする。横澤は冨田の指さす先を見て「あれ?」と声を出し、立ち上がるとすたすたと冨田の指さす先に歩み寄った。

「先生、いらっしゃってたのですね。お久しぶりです。そのせつはありがとうございました」

「あ、横澤さんお久しぶりです。その後どうですか?」

「おかげさまで、私は家族円満です。本当にありがとうございました」

「そうですか、それは何よりです。やはりご家族仲がいいのが一番です」

「いやぁ~ これも先生のおかげです」

「それは違いますよ。普段の横澤さんが、きちんとしているからです」

「ところで、こちらのキレイな女性の方は先生の……」

「あはは、誤解ごかいされそうですが、この方は私がお世話になっている雑誌の編集者さんです。たまにはこうしてご機嫌きげんをとらないと、いじめられますのでね」

「あら、私がいつ柴田さんをいじめました?」

 こう言いながら、その女性は立ち上がり横澤に名刺を差し出す。

田渕たぶちと申します」

 名刺を受け取り、横澤は恐縮きょうしゅくして言った。

「横澤と申します。今日はプライベートで名刺が無く申し訳ありません。市の児童福祉の方で働いております」

「あら、公務員の方。児童福祉は大変なお仕事でしょう」

「そうですね。でも、仕事はどんなことでも大変ですから、みんな同じようなものだと思います」

「本当にその通りですね。こちらの先生にもちゃんと言い聞かせてくださらない、横澤さん」

「おいおい、私だって一生懸命仕事しているじゃないか」

「せめて、りだけでも守って欲しいわ」

「あはは、先生たじたじですね。ではまた」

「はい、また」

 戻ってきた横澤を待っていたかのように佳江が聞く。

「もしかして、あの人が前に言ってた……」

「うん、その先生。柴田さん」

「へぇ~ あの人がねぇ~ ね! ちょっと紹介してよ、和哉くん」

「いいけど…… ちょっとほら、お連れさんがいるし……」

「いいじゃない、別に一緒に飲もうってことじゃないから」

「だけどさ……」

 横澤がしぶっていると、直人が三人の方にやって来た。

「それじゃ私たちはこれで失礼しますので、ごゆっくり」

「あ、ありがとうございます」

 そう直人に挨拶する横澤の脇腹わきばらを佳江は指でつつきながら、「ねぇ~」と催促さいそくする。

「何か?」

 直人が横澤と佳江を交互こうごに見ながら言った。

   -つづく-


 Facebook公開日 3/17 2021



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