【 ストレイシープ 4 】
冨田と佳江は、和哉(横澤和哉)の身体の秘密について話し合っていた。
冨田の話が終わり、沈黙の数分間が過ぎてから佳江は話し始めた。
「子どもさんに会ったことはあるの?」
「あるよ、二度ほどね。かわいい男の子だ、美智子さんによく似ている」
「和哉くんには?」
「わからない。似ているような気もするが…… どうだろう……」
「そうだ、血液型は?」
「そんなの、聞いたこともないよ」
「何気なく聞き出せない。そこに食い違いが見つかれば、すぐわかるでしょう」
「まだ三歳なんだぞ。子どもの血液型がはっきりするのは、四歳くらいからって聞いたことがある。まだ無理なんじゃないか」
「そうよね、忘れてたわ。八方塞がりね」
「施設は十八歳になると、出なければならない」
「それは私も聞いたことがあるわ。それから先は自分の力だけで生きていくんでしょう。相当に大変な環境だってことは、経験のない私にだって想像できるわ」
「施設を出て和哉に出会うまでの二年間、美智子さんはどこで、どうやって生活していたのか…… 和哉と出会った時は古いアパートの小さな部屋で、一人膝を抱えて眠るような生活だったと和哉は言っていた」
「二十歳の女の子が?」
「そうだったらしい。それを見た和哉は堪らなくなって自分の部屋に連れ帰った。そのまま二人は同棲生活に突入ってことだったよ」
「和哉くんは、その二年間のことはなにも聞いてないの?」
「それを聞かない和哉だから、美智子さんも結婚しようと思ったんだろう。その気持ちだけは理解できる。オレも同じだったからさ」
「同じだったって、どういうこと?」
「お前と別れて大学も止めて、オレはコンビニのバイトを掛け持ちしながらやっと生活ができていた。そのバイト先のコンビニに、和哉が買い物にきたんだ」
「偶然?」
「そうだとその時は思った。だけど和哉はオレの堕落の噂を聞いて探していたんだよ、こんなオレのことをさ。なのに偶然オレの店にきたような顔して『暑くて、のど乾いてさ~』なんて言いながら、ペットボトルのお茶を買いやがった。手に下げたトートバッグには、たぶん十本くらいのペットボトルが入っていたと思う」
「そういう奴だったよね、和哉くんって」
「そのお茶を飲みながら和哉はオレがバイト終わるまで、確か二時間くらい駐車場で待っていたんだ。バイト終わって外に出たオレは、和哉を見て驚いて聞いた。『待っていたのか?』ってね」
「え! あなた知らなかったの、和哉くんが待っていたこと」
「知らなかったさ、あいつ何も言わないで待ってたんだよ。昔から何も変わっていない。自分のことより相手のことを先に考える。高校の時のままだった。『用があるって言ってくれたら、早退したのに』って言うと『そうしたら、義雄の稼ぎが減るさ』って言いながら笑っていたんだ」
「なんだって、いい人過ぎるんだよね」
「それから二人でオレの部屋に帰って、コンビニのチーズでビール飲んで…… でもあいつ何も聞かないんだ。暮らしのこととか、大学止めたこととか、金のこととか、お前と別れたこととかもまったく聞かない。一緒にビール飲んで、昔のバカ話して大笑いして……」
「それから?」
「それだけ。『重いからこれ置いてくよ』って言って、いろんなコンビニの袋に入ったペットボトルと、チーズとかチョコとかをさ、置いていった」
「ふぅ…… なんて人なの」
「それからも和哉はオレのアパートにビールとかを持ってやって来た、何回もね。だけどやっぱり何も聞かない。ただバカ話して帰っていった」
「…………」
「オレは和哉に救われたんだ。オレはいつの間にか、『和哉に、ちゃんと自分のことを話せるようになるんだ!』って、本気で思うようになっていたんだ」
「そんなことがあったんだ……」
「何回目かの時、オレは和哉に聞いたことがあるんだ。『なんでお前は何も聞かないんだ?』って」
「そうしたら?」
「あいつ言うんだよ。『だってそれ聞かれるの、義雄いやでしょ』って」
「確かにね、一番イヤだよね」
「それからだよ。オレは履歴書書いて、ハローワークに毎日のように通って仕事探しさ。だけど世の中甘くないな…… 大人の厳しさをこれでもか! ってくらい味わったよ。自分の甘さもはっきりと自覚した。何回も折れそうになり挫けそうになったけど、なぜかそんな時に和哉はやって来るんだ。そして二人でビール飲んで…… オレは元気と勇気を、いつも和哉からもらっていたんだ」
「それで今の会社に勤めたわけ」
「拾われた。今の会社の会長とちょっとわけありでね」
「ま、人たらしはあなたの得意技だったしね」
「その技は使わなかったよ。ま、この話はここまでにしよう」
「そうね。じゃ話を戻すけど、もう少し考えてみようよお互いに。なにも今日、今ここで結論出さなくてもいいわけだし」
「そうだな。オレもちょっと剝きになって焦ってたな」
「起死回生のアイデアを思いつくかもしれないでしょう」
「考え出してやるよ。和哉のためにも、和哉の家族のためにも!」
「期待してるわ、友人代表!」
冨田のグラスに自分のグラスを軽く押し当てて、佳江は残っていたワインを飲み干した。
「ごめん私、冗談抜きで今地獄のような忙しさなんだ。家に帰って論文書かないといけないからもう帰るね」
そう言うと、重そうなカバンを肩に掛け、佳江は財布を探す。
「いいよ、誘ったのはオレだ。おごるよ」
「え! 本当。ありがとう。じゃ今度ね、おごるね、じゃまた」
ほとんど会話になっていない単語を残して、佳江は帰っていった。
冨田はじっと氷の溶けたウイスキーのグラスを見つめていた。
その後の四日間、佳江は研究と論文作りに追われ睡眠時間も取れないほどの忙しさだった。冨田からはなんの連絡もなく、横澤のことが気にならないわけではなかったが、そのことを後回しにできた佳江は論文に集中した。
書き上がった論文を教授に見てもらおうと大学に行くと、教授は留守だった。
佳江のスマホがポケットの中でブルブル震えたのは、研究室に向かう廊下でのことだった。立ち止まって電話を受けると、切迫した父親からの連絡だった。
「母さんが倒れた」
突然の連絡に佳江は呆然となったが、状況がまったく掴めない。
「お父さん、いったい何があったの?」
「オレにもよくわからん、とにかくすぐ帰ってこい」
事情を研究室の後輩に話し、佳江はすぐに搬送先の病院に駆けつけたが、母親は集中治療室の中だった。
兄が父親と一緒に控室の中で途方にくれていた。
そろそろ師走の慌ただしさが感じられる十二月の二週目、暖かい陽射しに誘われて洗濯物を外に干している時、佳江の母親は脳梗塞で倒れた。
居間でお茶を飲んでいた父親は、この異変にすぐ気づけなかった。戻りの遅い女房を不審に思い庭に出た父親が気づくまでの数十分、寒い庭で母親は倒れたままだった。
すぐに救急搬送されたものの、医師の努力も虚しく意識を取り戻さないまま、母親は二日後に息を引き取った。
実家を切り盛りしていた母親を突然失い、何をどうすればいいのかさえわからないままに葬儀が営まれ、佳江の疲労はピークをとっくに過ぎていた。
佳江がそれに気づいた時にはすでに身体が限界を超え、朝起き上がることすらできないほどに弱っていた。 母親の葬儀がやっと終わった翌日に、今度は娘が救急車で運ばれたのである。
佳江は母親が息を引き取った集中治療室で、今度は自分が治療を受けることになるとは思ってもいなかった。
論文を仕上げるために数日間徹夜同然だったことに続き、母親の葬儀でさらに徹夜同然の日々が続いた。その上葬儀に来ていた親戚の子どもがインフルエンザに感染していたらしく、体力の落ちていた佳江はあっさりとその子どもから感染してしまい、肺炎一歩手前で救急搬送されたのだった。
あれやこれやが重なり、二日間を集中治療室で過ごした佳江は、三日目の朝にやっと意識を取り戻した。しかしすぐに体調が戻るわけもなく、そのまま三週間の入院治療を受けることになり、年末年始を病院のベッドで過ごすことになった。
そんな佳江の留守中に、研究室では厄介なことが始まっていた。精液に異状が見つかった提供者の中から十人程を選び、その人たちを追跡調査することになったのである。運が悪いことに、その中に横澤が入っていたことなど佳江は知る由もなかった。
年が明け、土曜・日曜がお正月休みにつながり、お役所の仕事初めは一月六日になる。大学の研究室から横澤に封書が届いたのは、そんな長い休暇中のことだった。
封書の内容がよく理解できず佳江に聞こうとしたのだが、佳江のスマホは圏外になっていた。そのため仕事初めの六日、横澤は直接研究室に連絡してそこに出向いた。
その時、佳江の後輩の研究員から、佳江が体調を崩して休んでいること、それから横澤の精液に異状があることを告知されたのである。
「それって、どういうことですか?」
「つまり性交、あ、これはセックスのことです。横澤さんの場合、女性とセックスして子どもができる可能性が極めて低いことがわかりました」
「だって私は妻との間に子どもがいるんですよ」
「え! それは…… 私どもとしてはなんとも……」
「だって私には子どもができないと、あなた今、言いましたよね。でも妻は私の子どもを出産しているのです。何かの間違いではないのですか?」
「できないと言っても、まったくできないと言っているわけではなく、可能性が極めて低いと言っているわけでして……」
-つづく-
Facebook公開日 3/11 2021
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