【 ストレイシープ 15 】
佳江は横澤の紹介で直人に会う。三人は横澤の馴染みの店で夕食を共にしていたが、 横澤は「九時を過ぎたから」と言って帰ってしまった。
ほどなくして、残された二人も注文した肉が無くなると店を出た。
まだ時間が早いからだろう、東五番丁通りは行き交う人が多い。その歩道を並んで歩きながら直人が言う。
「もう少し飲みませんか?」
「イタズラしないのならお付き合いします」
「大丈夫、もうしません」
「前にお会いしたお店に連れて行って下さい」
「わかりました」
「私、歩きたいわ。ちょっと食べ過ぎちゃった」
「いいですよ、歩いて行きましょう」
夜の街を肩を並べて歩きながら、佳江は話し始めた。
「あなたのこと、だいぶ前に横澤くんに聞いてました。横澤くんのカウンセリングされていたようですね」
「ごめんなさい、私もあなたを以前から知っていました。初めて見たのは、横澤さんがあなたに再検査を頼んだ時です」
「やっぱりそうですか。何となくそうかなぁ~ と思っていました」
佳江はもう自分を抑えられなくなっていた。
「一昨日、私、◯◯市営住宅に行って来ました」
「なんですか? その……」
「滝崎さんがサンプル提供時に記入した現住所の場所です」
「誰です? その滝崎さんって」
「あなたの代わりにサンプル提供の申込書を書いて、採取する容器を手に入れた人です。もしかして、滝崎は柴田さんの偽名ですか?」
「高城さん、これは何の話ですか?」
「柴田さん、今回の横澤くんの一件で、私はある仮説をたてました。聞いて頂けますか?」
「いいですよ、話してみてください」
佳江は自分の仮説を、詳しく直人に話した。話しながら二人は、錦町公園を横切り定禅寺通りを進み、勾当台公園に入った。
「少し座りましょう」
そう言うと直人はベンチに腰を下ろす。佳江は直人の前に立っていたが、やがて直人に促されるようにその横に座った。
「なるほど、それで◯◯市営住宅に行かれた」
「滝崎という人はいなかった。住民の方にも聞いたけど、滝崎という名前の人はその住宅にいないそうです」
「で、その滝崎は私の偽名か、私の仲間だとあなたは考えたわけですね。それを裏付ける何か物的証拠でも?」
「残念ながら……」
「でしょうね、そんなものはあるわけない」
「教えてください。私が知りたいのは真実だけです。口外など絶対にしません」
佳江は直人の目を見つめながら言う。直人も佳江の目を真っ直ぐに見つめている。お互いを見つめ合う二人の間で、沈黙の時間だけがゆっくりと流れていた。
「私は『誤りだったことにならないかなぁ』と、考えていました」
やがて直人はゆっくりと、そしてはっきりとした口調で話し始めた。
「なにが、でしょうか?」
「横澤さんの今回の一件が、です」
「どういうことですか?」
「『五年前の検査結果は誤りだった』ということにならないかなぁ…… と」
「誤りって、どのような?」
「そうですね~ 例えば『五年前の検査日には、横澤さんの他にも何人かの提供者があった。その中の一人と横澤さんの検体とが、なんらかのミスで入れ替わってしまった』とか……」
「それって……」
「今回の再検査の結果は、前回と全く違うものだったそうですね」
「はい」
「今回の再検査は、あなたが一人で横澤さんの検体だけ検査した。つまり今話したような間違いは、起こりえない状況で行われた」
「その通りです」
「検査の信頼度は100%」
「そうなるようにしました」
「そこから導かれた、あなたの答えは?」
「前回の検査では『検体を取り違えた』など、何らかの重大なミスがあったものと推測できる。ただし、どんなミスかは調査不可能。です」
「あなたの検査結果は、私が考えた通りになってくれました」
「私は、あなたの手のひらで踊らされていたと……」
「まさか、小さな奇跡が起きたのですよ」
「奇跡って…… もしかして、変な宗教のようなものじゃ……」
「あはは、私は基本的に宗教は信じていません。ただ、私はいつもクライアントさんにはこうお伝えしています。『自分を信じてください。小さな奇跡くらいなら、誰にでも起こせる力があるのです』とね」
「あなたは、今回の横澤くんのことは『彼自身が起こした小さな奇跡だ』とでも言いたいのですか?」
「そんなことが、私にわかるはずはありません。ただ、私は『こうなったら一番いいのにな~』と思っていただけです」
「結果はあなたが思っていた通りになった」
「よかったと、心から思っています。誰も傷つかず、誰をも傷つけずに解決したのですからね。これが真実です」
「…………」
佳江は黙り込んだ。「つけ入る隙が見つからない。これを否定することは、屁理屈を言うのと同じことだ」と思ったからだ。
そんな佳江を無視するように、更に直人の話は続く。
「それからここはとても重要なことですが、前回の検査結果を横澤さんが知らなかったとしたら、彼にどんな不利益が発生しましたか? 医学の立場から考えてみてください。私は一切発生しないと考えています。いかがでしょう」
「それは私も同じです。むしろ横澤くんとそのご家族が前回の検査結果を知ることで、とんでもない不利益を受けると考えていました」
「ですよね。よかった、あなたは私の考えていた通りの人でした」
「前回の検査結果、本当は私隠しておきたかったのです。これは横澤くんが知らなくてもいいことだと考えていました。ところが、そんな私の目論みとは別なところからこの事実が横澤くんに知らされた。これが今回の騒動の始まりでした」
「私もなぜ、こんな知らなくてもいいことをわざわざ本人に知らせ、その人を苦しめなければいけなかったのか? が、とても疑問でした。たとえそれが真実だったとしても、知らなくてもいい真実だって世の中にはいっぱいある。その人がその真実を知ることでとても不幸になる。または、とても大きな不利益を被るということがわかっているのなら、嘘をついてでもそのことを知らせない方がいい。私はこう考えています」
「…………」
佳江は黙って直人の話を聞いていた。
「こういう言葉があります。映画の台詞なのですが『誤りと嘘の間に大きな差はない。微妙な嘘というのは』」
ここで佳江が「あ!」と声を出した。
「『微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い』でしょ! それ、私知ってます。ジャン=リュック・ゴダールですよね」
「これは驚いた。これを知っている人に、初めて出会いました」
「エヘヘ、映画の台詞オタクなんです。私」
「ゴダールの言う通りなのです。所詮、小さな嘘と間違いの間には、大きな差はないのですから、間違えたふりをすればいいんです。間違えたふりなら、いくらでも人間はできるものです」
「間違えたふりですか……」
「今回の一件で、私にはわからないことがあります。なぜ知らなくてもいい真実を、わざわざ横澤さんに教える必要があったのか? ということです」
「彼を苦しめるつもりなど、少しもなかったのです。こちらとしては、サンプル提供に協力して頂いた人の中で、精液に問題が見つかった人を対象に追跡調査したかっただけなのです。その追跡調査の対象者の一人に、横澤くんが入っていた。私が長期間休みさえしなければ、こんなことは起きなかった。私は横澤くんの家庭のことは知人に聞いて知っていましたから、私がその場にいれば、そこで止められたのです。そういう意味では、これは私のミスだったのです。私が休んでいたので、横澤くんに後輩の研究員が対応したのです。しかし、その研究員に気配りが足りなかったばかりに、結果は横澤くんを苦しめてしまった…… というのが、今回の経緯です」
「なるほどね~ そういうことでしたか」
「はい」
「しかし、一概にあなたのミスとも言いきれない。そんなに自分を責めるのは、あまりよいことではありません」
「でも……」
「もう、このことは解決したのです。そう納得して頂けないですか?」
「…………」
「自分の考えに自信を持つことは、とても良いことです。どんなことでも、出発点はそこですからね。ただ、執着するのは止めた方がいいと私は思います。そこに執着すると、回りが見えなくなるものです」
「私は執着なんて……」
「思い出してくださいませんか。今回の横澤さんの一件で、あなたはあれこれと思いを巡らしたり、再検査などに身を惜しまず尽力されたはずです」
「尽力だなんて…… 当然のことをしただけです」
「謙遜することはありません。ただ、思い出して欲しいのです。それらは何のため、誰のためでしたか?」
「それは…… 横澤くんの……」
この時佳江は、今自分が犯している決定的なミスに気がつく。
「そうですね。横澤さんが、そして彼の家族が不幸にならないように! ですね。そのためには、横澤さんの心をリセットする必要がある。と私は考えました。どうすれば横澤さんの心を、何も知らなかった時まで戻せるか。落とし所は何処なのか。私はそのことだけを考えながら、横澤さんにカウンセリングしました」
「はい」
一気に雲が流れ、初夏の青空が頭上に広がるように、佳江の目から疑念の影が消えた。そんな佳江の目を見ながら直人は言う。
「やはりあなたはとても頭のいい方だ、もう気づかれましたね」
「はい。私は横澤くんが、そして彼の家族が不幸にならないようにと、それだけが望みでした。それが願った以上の形で叶った。横澤くんの心はリセットされ、彼の家庭は何事もなかったように幸福な毎日を送っている。これでいい! 私もこれを願っていたはずだ。すり替えがあろうとなかろうと、そんなことはどっちでもいい。どうせ嘘と間違いには、たいした差はないのだから」
これには答えず、直人は立ち上がった。
「寒くないですか? すみませんでした、こんなところで」
「いえ、気を使って頂き、こちらこそすみませんでした」
「では、暖かいものを飲みに行きましょう」
直人が差し出した手に触れると、手のひらはうっすら汗で濡れている。
「こんな人でも、緊張するんだな~」
そう思った途端に、直人がとても愛おしく佳江には思えた。
「はい」と答えて直人の手を握ると、佳江は思いっきり直人を引き寄せた。
「うわぁ!」不意を突かれた直人は悲鳴に近い声を出し、佳江の上に覆い被さる。そんな直人を抱き止め、耳元で佳江が囁いた。
「こら、イタズラ坊主。本当はどっちだったか、お姉さまに教えなさい! 本当のことを言わないと、お仕置きよ!」
「・・・・・」
「ぷっ! やっぱり」
と、佳江は思わず吹き出してしまう。
「お仕置きでも、よかったんだけどね」
直人はそう言うと立ち上がり、「ククク」と声を抑えて笑い出した。
やがて二人は、公園の中で大笑いしていた。
-完-
Facebook公開日 3/23 2021
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